徳川吉宗
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享保元年(1716年)に将軍徳川家継が8歳で早世し、将軍家の本家血筋(徳川家康の三男秀忠の男系)が絶えた後を受け、御三家の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代征夷大将軍に就任した、と一般的には説明されている。ただし、実際には館林藩主で家継の叔父に当たる松平清武とその子で従兄弟の松平清方と、この時点では徳川家光の男系子孫は存在していた[注釈 3]。しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上、清武は他家に養子に出た身であり、すでに高齢だったという事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われている(詳しくは清武の項目を参照)。御三家筆頭とされる尾張家では、当主の4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太が正徳3年(1713年)頃に相次いで死去した[注釈 4][注釈 5]。そのため吉通の異母弟継友が尾張藩6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛家熙の娘の安己君[注釈 6]と婚約し、間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 7]、8代将軍の有力候補であった。
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