徳川光圀
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光国18歳のとき、司馬遷の『史記伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなる[4][6]

承応元年(1652年)、侍女弥智(玉井親次の娘)との間に男子(頼常)が生まれるが、母の弥智は妊娠中に家臣・伊藤友玄に預けられて出産し、生まれた子は翌年に高松に送られて兄・頼重の高松城内で育てられた。光国に対面したのは13歳の時であったが、このとき光国は親しみの様子を見せなかったという。承応3年(1654年)、前関白近衛信尋の娘・尋子(泰姫)と結婚する。

明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。

万治元年閏12月23日(西暦1659年2月14日)妻・泰姫が21歳で死去。以後は御簾中を娶らなかった。
藩主時代

寛文元年(1661年7月、父・頼房が水戸城で死去。葬儀は儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬った。当時の風習であった家臣の殉死を禁じ、光国は自ら殉死の噂された家臣宅を廻り、「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ではないか」と問いかけ殉死をやめさせたといわれている。幕府が殉死禁止令を出したのはその2年後であるので、『義公行実』では殉死の禁止の初例としている。ただし、同じ頃、紀州藩彦根藩会津藩でも殉死を禁ずる旨の記録があるので、水戸藩が初例かどうかはわからない。

8月19日、幕府の上使を受け水戸藩28万石の第2代藩主となる。『桃源遺事』では、この前日、兄・頼重と弟たちに「兄の長男・松千代(綱方)を養子に欲しい。これが叶えられなければ、自分は家督相続を断り、遁世するつもりである」と言ったという。兄弟は光国を説得したが、光国の意志は固く、今度は弟たちが頼重を説得し、頼重もやむなく松千代を養子に出すことを承諾した、とされている。しかし実際には、綱方が光国の養子となったのは、寛文3年(1663年12月である。翌寛文4年(1664年2月、光国の実子・頼常が頼重の養子となる。さらに寛文5年には頼重の次男・采女(綱條)が水戸家に移り、綱方死後の寛文11年(1671年)に光国の養子となった。また、弟・頼元那珂郡2万石(額田藩)を、頼隆久慈郡2万石(保内藩)を分与する。

藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行・望月恒隆に水道設置を命じた。頼房時代に造営された水戸下町は元々は湿地帯であったため井戸水が濁り、住民は飲料水に不自由であった。望月は笠原不動谷の湧水を水源と定め、笠原から細谷まで全長約10kmを埋設した岩樋でつなぐ笠原水道を着工。実際の敷設は永田勘衛門とその息子が担当した。約1年半で完成した。笠原水道は改修を重ね、明治時代に近代的な水道が整備されるまで利用された。

寛文3年(1663年)、領内の寺社改革に乗り出し、村単位に「開基帳」の作成を命じた。寛文5年(1665年)、寺社奉行2人を任じ、翌年寺社の破却・移転などを断行した。開基帳には2,377寺が記されているが、この年処分されたのは1,098寺で、46%に及ぶ。うち破却は713寺。主な理由は不行跡であった。神社については、社僧を別院に住まわせるなど神仏分離を徹底させた。また、藩士の墓地として、特定の寺院宗派に属さない共有墓地を、水戸上町・下町それぞれに設けた(現在の常磐共有墓地酒門共有墓地)。一方で、由緒正しい寺院長勝寺 (潮来市)や願入寺(大洗町)などについては支援・保護した。神社については、静神社那珂市)、吉田神社(水戸市)などの修造を助けるとともに、神主を京に派遣して、神道を学ばせている。

寛文5年(1665年)、の遺臣・朱舜水を招く。朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派であった。朱舜水を招いた主な目的は、学校建設にあったようであるが、おそらく費用の面から実現しなかった。しかし、その儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となって残った。朱舜水は、17年後の天和2年(1682年)死去し、瑞龍山に葬られた。

延宝元年(1673年)、5回目の就藩からの江戸帰府に際し、通常の経路でなく、上総から船で鎌倉に渡り江戸へという経路をたどった。鎌倉では英勝寺を拠点として名所・名跡を訪ね、この旅の記録を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏めた。貞享2年(1685年)、『鎌倉日記』をもとに河井恒久らにより、地誌『新編鎌倉志』が編纂された。創作の『水戸黄門』では日本全国を諸国漫遊しているが、藩主は江戸になければならず、領地を視察や移動中に寄り道することはあったが、光圀は遠出といっても鎌倉にある養祖母・英勝院の菩提寺英勝寺)に数度足を運んだ程度である[1][6]

延宝5年(1677年)、生母を弔うため、久昌寺を建立した[7]

延宝7年(1679年)頃、諱を光圀に改める(光圀52歳)[注 5]

貞享から元禄の初めにかけて、建造した巨船「快風丸」を使い、三度にわたる蝦夷地探検を命じる。二度目までは松前までの航海であったが、元禄元年(1688年)出航の3度目は松前から北上して石狩まで到達した。などと引き換えに、塩一万本、ラッコトドの皮などを積んで帰還した。この航海により、水戸藩は幕末に至るまで蝦夷地に強い関心を持った。しかし、この巨船での航海は、光圀が藩主であったから幕府も黙認して実現したようで、これ以降行われず、光圀の死から3年目に快風丸も解体された。
隠居時代

元禄3年(1690年10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継いだ。翌15日権中納言に任じられた。11月29日に江戸を立ち、12月4日に水戸へ到着。5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年(1691年5月久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲した。佐々宗淳ら60余人が伺候した。那須国造碑のある笠石神社と日本考古学発祥の地碑

光圀は、元禄5年(1692年)に古墳発掘調査を行わせた。事の始まりは、下野国(現在の栃木県)で水戸藩領だった那須郡小口村(現・那珂川町)の庄屋・大金重貞が延宝4年(1676年)、旅僧の円順から「湯津上村に古い碑がある」と聞いて現地を訪れ、この那須国造碑に刻まれた文章を調べて『那須記』という本にまとめ、光圀に献上した[8](湯津上村は藩領でなく旗本知行地であった)。光圀は、碑を那須国造の墓ではないかと考え、貞享4年(1687年)に佐々宗淳に調査を命じた[8]。碑の下からは何も出土しなかった[8]が、佐々は碑を修繕して鞘堂を建てた。佐々は元禄5年(1692年)、碑の近くにあり、那須国造のものと伝承される侍塚(上侍塚古墳下侍塚古墳)を発掘して甲冑、石釧、管玉などを見つけたが、埋葬者を明記した墓誌などはなく、光圀は出土品をの箱に収めて埋め戻させた[8]。この折の記録は、『湯津神村車塚御修理』と、水戸藩が保管していた図面をもとに明治9年(1876年)に栗田寛が記した『葬礼私考』に残されている[8]。日本初の学術的着想による発掘といわれるこの調査は、翌元禄6年(1693年4月に終了し、6月には光圀が湯津上村を訪れ、那須国造碑と両古墳を視察した。


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