徳富蘇峰
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^ 白色人種のヘゲモニーに対峙する国民的自覚を持つべきの意。澤田次郎は蘇峰が同語を使い始めたのは、1913年(大正2年)のカリフォルニア州外国人土地法(排日土地法)の成立が契機となったと指摘している[50]
^ 当時の原稿用紙の余白に「本日は顔面神経尤も劇(はげし)。ソノ為シバシハ筆ヲ投シ、漸ク之ヲ稿了セリ。後人ソノ苦ヲ察セヨ」という文が記されたものがある[52]
^ 2006年(平成18年)から2007年(平成19年)にかけて『徳富蘇峰終戦後日記:「頑蘇夢物語」』と題し、講談社から全4巻が刊行された。
^ 山本武利は「天皇批判は戦後60年、メディアの世界で最大のタブーと目されてきたので、右翼側からの提起として傾聴すべきだろう」と述べている[54]
^ 有山輝雄1986年(昭和61年)に、創刊直後の『朝日新聞』が政府から厖大な助成金を得て政府寄りの報道をおこなう密約をむすんでいたことを一次史料を駆使して明らかにしており、1992年(平成4年)には『徳富蘇峰と国民新聞』を著して言論の独立と政治・経営の関係を追究している[64]
^ 蘇峰と蘆花の関係については、2003年(平成15年)、『近代日本と徳富兄弟 徳富蘇峰生誕百四十年記念論集』が東京蘇峰会によって出版されている。
^ JR京浜東北線大森駅の西側に広がる台地一帯は、付近に山王社が鎮座することにより、古くから「山王」と呼ばれていた。山王草堂の名はこれに由来する。1868年(明治元年)の神仏分離令により、社号は日枝神社へと改められるも、(大字・おおあざ)新井宿の中に、「山王」と「山王下」の地名が小字(こあざ)として残されていた。蘇峰移転当時の山王草堂付近は新井宿字源蔵原という地名であったが、1932年(昭和7年)には付近の「山王」、「山王下」と併せて「山王1丁目」と改められた。
^ 兆民の著した『三酔人経綸問答』の一部を『国民之友』に掲載し、蘇峰がその評を寄せた。
^ 前身の南都正強中学(現:奈良大学附属高等学校)の創立者藪内敬治郎(陸軍士官学校出身)は、蘇峰の信奉者で学園に冠された「正強」の二文字は蘇峰が贈ったものである。

参照^ a b c d e f g h i j k l 杉井(1989)
^ a b c d e f g 田代(2004)
^ 父42歳、母35歳、祖父美信が猪一郎と命名。猪は亥で文久3年癸亥に生まれたことを証明するものである(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 p.31)
^ 人間は真面目かつ正直で重厚質実であり、どこを探しても横着や軽薄という所はなかったという。老年に至っては好々爺であり、篤実の君子として世間からも生ける聖徒のように思われていた。しかし非常な癇癪持ちの側面もあったとされる(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 p.25)
^ 肥後の最南端で、薩摩と境を接している。前は海に面し、後ろに山を背負っている。熊本から二十五里、鹿児島から二十八里で、双方のほぼ中間である。上古よりの駅路にて、延喜式にも記載せられている。大なる部落で山から材木、炭、薪をだし、浜辺には塩田があった。価格は第三位であった(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 pp.18-19)
^ 徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 p.43
^ この学校は細川侯が維新に当初に創立した。横井太平氏などの尽力でできた。多分最初は兵学校にでもするつもりであった。(徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 p.53)
^ (徳富蘇峰著 『徳富蘇峰 「蘇峰自伝」』 [人物の記録22] 日本図書センター 1997年 p.53)
^ a b c d e 遠山(1979)pp.231-232
^ a b c d e f g h i j k l m 松岡正剛の千夜千冊:徳富蘇峰『維新への胎動』

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