大江義塾時代の蘇峰は、リチャード・コブデンやジョン・ブライトらマンチェスター学派と呼ばれるヴィクトリア朝の自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった[10]。1882年(明治15年)夏に上京し、慶應義塾に学ぶ従兄の江口高邦に伴われて福澤諭吉に面会[11]。
蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった[10]。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。蘇峰の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、翌1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』[12] に展開されたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである[2][注釈 4]。彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。蘇峰24歳(1886年夏)
蘇峰は1886年(明治19年)の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の原稿をたずさえ、新島襄の添状を持参して高知にあった板垣退助(自由党総理)を訪ねている。原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている[13][注釈 5]。同書は蘇峰の上京後に田口卯吉の経済雑誌社より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して論壇デビューを果たした[9][15]。これが蘇峰の出世作となった。
1887年(明治20年)2月には東京赤坂榎坂に姉・初子の夫・湯浅治郎の協力を得て言論団体「民友社」を設立し、月刊誌『国民之友』を主宰した。この誌名は、蘇峰が同志社英学校時代に愛読していたアメリカの週刊誌『The Nation』から採用したものだといわれている[16]。
民友社には弟の蘆花をはじめ山路愛山、竹越與三郎、国木田独歩らが入社した。『国民之友』は、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「欧化主義」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南ら政教社の掲げる国粋主義(国粋保存主義)に対しても平民的急進主義の主張を展開して当時の言論界を二分する勢力となり、1888年(明治21年)から1889年(明治22年)にかけては、大同団結運動支援の論陣を張った。また、平民叢書第6巻として『現時之社会主義』[注釈 6]を1893年(明治26年)に発刊するなど社会主義思想の紹介もおこない、当時にあっては進歩的な役割をになった[9][18]。
その一方で蘇峰は1888年(明治21年)、森田思軒、朝比奈知泉らとともに「文学会」の発会を主唱した。会は毎月第2土曜日に開かれ、気鋭の文筆家たちが酒なしで夕食をともにし、食後に1人ないし2人が文学について語り、また参加者全員で雑談するという会合で、坪内逍遥や森?外、幸田露伴などが参加した[19]。
1890年(明治23年)2月、蘇峰は民友社とは別に国民新聞社を設立して『國民新聞』を創刊し、以後、明治・大正・昭和の3代にわたってオピニオンリーダーとして活躍することとなった[2]。さらに蘇峰は、1891年(明治24年)5月には『国民叢書』、1892年(明治25年)9月には『家庭雑誌』、1896年(明治29年)2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東(The Far East)』)を、それぞれ発行している[1]。このころの蘇峰は、結果として利害対立と戦争をしか招かない「強迫ノ統合」ではなく、自愛主義と他者尊重と自由尋問を基本とする「随意ノ結合」を説いていた[10]。