徳冨蘆花
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1898年に『国民之友』に連載した、ビヨルンソン『ゾルバッケン』の翻訳「野の花」(未完)を、田山花袋は「一時私達の憧憬するところとなった」と評している[2]。『不如帰』は1901年に高田実一座、1903年に劇団新派でも公演されて、旅芝居や映画にもなり、さらに人気を高め、1909年には100版を重ね、刊行後30年で185万部を売り上げるベストセラーとなった。
社会小説と晴耕雨読生活『自然と人生』初版表紙

1900年に東京原宿に転居。1902年1月26日-6月29日には、鹿鳴館時代の政界の腐敗や上流社会の風俗を題材にした社会小説「黒潮」を『国民新聞』に連載[1]。『黒潮』は蘇峰が材料を提供したもので、他の作家は知り得ない薩長政治の内幕に詳しかったが、未完のままとなった[3]。やがて国家主義的傾向を強める兄とは次第に不仲となり、1903年に蘇峰への「告別の辞」を発表し、絶縁状態となり、民友社を離れて黒潮社設立。日露戦争開戦直前の1904年1月に『平民新聞』に非戦論を寄稿。1905年に木下尚江らがキリスト教社会主義の雑誌『新紀元』を発行する際にも援助した。

1905年に愛子と富士登山中に人事不省となり、生活の転換を目指して再び逗子に転居。1906年4月4日横浜を出帆、ヨーロッパ旅行し、パレスチナを経て、6月30日ロシアでトルストイを訪問、そのときの記録『順礼紀行』は、オスマン帝国治下のエルサレム訪問記も含めて、貴重な記録となっている。8月4日に帰国後青山高樹町に転居。また1906年には旧制・第一高等学校の弁論部大会にて最初の講演を行ない、『勝の哀(かちのかなしみ)』の演題で、ナポレオン児玉将軍を例に引き、勝者の胸に去来する悲哀を説き、一時の栄を求めず永遠の生命を求める事こそ一日の猶予もできない厳粛な問題であると説いた。この演説に感動した一高生の何人かは荷物をまとめて一高を去ったという。

1907年(明治40年)、東京府北多摩郡千歳村大字粕谷(現・東京都世田谷区粕谷)に転居、トルストイの影響による半農生活を送り[4]、文壇と離れて、死去するまでの20年間をこの地で過ごした。しばらく執筆が途絶えたが、病床にあった国木田独歩を慰藉するために田山花袋らによって編集された『廿八人集』に「国木田哲夫兄に与へて余が近況を報ずる書」を寄稿した[3]
謀叛論

1910年(明治43年)の大逆事件の際、幸徳秋水らの死刑を阻止するため、蘇峰を通じて首相の桂太郎へ嘆願、さらに明治天皇宛の嘆願書を『朝日新聞』に送ったが、甲斐なく幸徳らは処刑されてしまう。直後に再び一高の弁論部大会での講演を依頼されると1911年(明治44年)2月1日、『謀叛論』の題で論じ、学生に深い感銘を与えた。これは新入生歓迎行事の一環として行われた[5]。この講演を依頼した学生が、戦後に社会党委員長となる河上丈太郎や文部大臣となる森戸辰男だった。しかしこれを不敬演説という非難が起こり、校長新渡戸稲造らが譴責処分とされることになった。演説『謀叛論』の内容を推測する草稿が3種類残されている[6]。他校の東京高商から演説を聴きに来た浅原丈平の回想によると、蘆花は原稿を読み上げるのではなく、原稿から省略された箇所、原稿にない話もあった[7]。一高の弁論部員河合栄治郎は、「私共は息つく間もない位にひきずりこまれて、唯感心してしまった」と書き記した[5]。第二次大戦後、言論の自由が保障されてから田中耕太郎、森戸辰男が演説に言及した[5]。一高英文科一年三組の松岡善譲(松岡譲)、菊池寛久米正雄成瀬正一井川恭(恒藤恭)、工科一年一組の森田浩一などが演説について活字の文章にしたり、日記に書いたりした[5]。井川恭の演説当日の日記は、演説内容が詳細に書き留められ、重要な資料となっている[5]。井川の日記には、「幸徳君ハ死んではゐない。生きてゐるのである。武蔵野の片隅にひるねをむさぼる者をこゝに立たしめたではありませんか」、「圧制はだめである。自由をうばふのハ生命をうばふのである」等、蘆花が草稿よりも踏み込んだ内容を語ったと分かる箇所が記されている[5]。英法・政治・経済・商科一年二組の矢内原忠雄は、「演説終りて数秒始めて迅雷の如き拍手第一大教場の薄暗を破りぬ。吾人未だ嘗て斯の如き雄弁を聞かず。(略)殊に真摯なる演説者の肉声は健実にして真摯なる一高健児の胸に最も正当に共鳴し得るなり。」と講演から19年経ってなお熱烈に記している[7]
晩年蘆花恒春園 蘆花夫妻墓地(東京都世田谷区)

1912年に粕谷での「田園生活のスケッチ」と述べる[8]短文集『みゝずのたはこと』を書き、震災までの11年で108版10万余部を重ねるロングセラーとなり、またこの作品から本名の健次郎で発表する。1913年に国民新聞社襲撃を受けて、同社再建のために兄と交流を再開するが、翌年には父一敬の葬儀にも参列せず、親族との交流を断ち、1908年に養女に迎えていた蘇峰の末子鶴子も、蘇峰の元に返した。

1918年に粕谷の自宅を「恒春園」と命名。この年からエルサレム巡礼と世界一周の旅行に出かけ、エルサレム滞在時にパリ講和会議に宛てて「所望」と題する、軍備全廃と世界政府に向けた構想を送付した。


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