徳冨蘆花
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ウ冠でなくワ冠を用いる「徳冨」の表記にこだわり、各種の文学事典、文学館、記念公園などはワ冠の「冨」の字を採用している。

同志社中退。思想家の兄、徳富蘇峰創設の民友社に参加。長編小説『不如帰』で文名を得、随筆『自然と人生』で独自の自然文学を結実させた。ほかに『思出の記』(1901年)、『黒潮』(1902年)など。
生涯
生い立ち

横井小楠門下の俊英であった父徳富一敬と母久子の四女三男の末子として、肥後国葦北郡水俣村に生まれる。5歳年長の兄に猪一郎(蘇峰)がいた。3歳の時に父が熊本藩に出仕するため一家で熊本へ出て、7歳で本山小学校入学、9歳の時に熊本洋学校入学、しかし西南戦争のために郷里に疎開する。1878年10歳の時に、同志社英学校に入学していた猪一郎に伴われて同校入学。2年後兄の退学とともに退学し、父の設立した熊本共立学舎に入り、1882年には猪一郎の設立した大江義塾に入る。この頃『八犬伝』『以呂波文庫』『太平記』などや、『七一雑報』の翻訳小説などを愛読した。

1885年17歳の時にキリスト教受洗し、今治教会で、従兄弟の横井時雄の元で伝道と英語教師に従事、この頃から蘆花の号を用いる。号の由来は、自ら述べた「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり」からきている。1886年に同志社に再入学、1887年に東京で民友社社長となっていた兄のところで二葉亭四迷の小説「浮雲」を読み、小説家になる志を立て、1888年に『同志社文学』に横井小楠の墓を訪ねた短文「孤墳の夕」が掲載され、初めて文章が活字になった。同志社副校長山本覚馬の娘山本久栄(学長新島襄の姪にあたる)と恋愛関係になるが新島にも兄にも反対され傷心し、出奔して鹿児島などを流浪、その後熊本英学校の教師となる。
作家として出発『不如帰』初版表紙

1889年に上京して民友社社員となり、校正、翻訳などの仕事をしながら、兄の主催する「文学会」にも参加し、坪内逍遥依田学海矢野龍渓山田美妙などに引き合わされ、また翻訳の伝記『如温武雷土(ジョン・ブライト)』『理査土格武電(リチャード・コブデン)』を出版した。1890年には兄の発刊した『国民新聞』に移り、外国電報や小説の翻訳をした。1891年にキリスト教と決別し、この頃からゲーテユーゴーなどヨーロッパ文学に親しみ、中でもトルストイ戦争と平和』を英語で読んで傾倒するようになる。1894年に縁談により原田愛子と結婚。自然に親しみ、「写生帖」の各編を『国民新聞』に発表し始め、また民友社の『家庭雑誌』『国民之友』などに雑文を書いていた。1896年に兄蘇峰がヨーロッパを歴訪し、トルストイとも会談し、健次郎はその記録に感銘を受け、トルストイの伝記を執筆する。

1897年に逗子に転居。1898年に紀行文や自然描写文を集めた『青山白雲』を刊行、11月から翌年5月まで『国民新聞』に、逗子の自宅で来客の婦人の語った噂話のエピソードを元にした小説「不如帰」を連載する。1900年に「不如帰」を全面改稿して出版し、これが当時の家庭小説の流行も相まって大きな反響を得て、続いて「灰燼」「おもひ出の記」(『国民新聞』1900年3月23日-1901年3月21日。『思出の記』として1900年5月刊)を連載、「おもひ出の記」も名作として愛読され、多くの青年に影響を与えた。また写生文を集めた『自然と人生』を刊行し「キリスト教の感化を受けた清新な感情で自然を描写」(中村光夫[1])で高く評価され、この年に民友社を退社して文筆に専念、また原宿に転居する。1898年に『国民之友』に連載した、ビヨルンソン『ゾルバッケン』の翻訳「野の花」(未完)を、田山花袋は「一時私達の憧憬するところとなった」と評している[2]。『不如帰』は1901年に高田実一座、1903年に劇団新派でも公演されて、旅芝居や映画にもなり、さらに人気を高め、1909年には100版を重ね、刊行後30年で185万部を売り上げるベストセラーとなった。
社会小説と晴耕雨読生活『自然と人生』初版表紙

1900年に東京原宿に転居。1902年1月26日-6月29日には、鹿鳴館時代の政界の腐敗や上流社会の風俗を題材にした社会小説「黒潮」を『国民新聞』に連載[1]


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