御附家老
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家康側近として江戸・伏見・駿河に随伴し、駿河年寄として本多正純村越直吉大久保長安板倉勝重などと共に幕府運営のための文書に連署するなどの重責を担ったまま、同時に義直頼宣の附家老に任じられた[3]。これら2家の歴史は、立場が異なれば老中を輩出する譜代大名となったであろうことから、子孫による附家老の家格上昇運動の意識に影響を与えた。

八朔五節句の単独登城については、文政8年3月8日の水戸藩家老衆の通達によると、まず成瀬・安藤の両家が単独登城を果たし、中山家他の附家老も続くことに成功した。安藤直裕は天保2年12月に日光奥之院の安藤直次の石碑が埋もれているのを発見し、それを譜代大名の石碑の列に再建したい旨を幕府に申し出たが、同列の再建を許されず、成瀬・竹腰・中山の石碑が譜代大名の石碑の列にあることからさらに陳情を繰り返した。また、独立大名が将軍の代替わり時に提出する誓詞を、附家老も提出したいという5家連帯の家格向上運動は、水戸藩主徳川斉昭の妨害により挫折したが、江戸城内に独自の詰間を保有する改善要求は、文政7年の安藤直馨以降より直接懇願されており、嘉永6年5月には老中阿部正弘水野忠央が雁之間を詰間にほしいと具体的な場所を指定した懇願を提出した。紀州藩の水野忠央が藩政を掌握して縁組で幕府に食い込み、紀州藩から養育した将軍を就任させ、また逆に将軍家よりの養子藩主を受け入れることで権力を強化し、5家連帯の運動よりさらに突出して、紀州藩の水野・安藤2家に菊之間席を与えるように幕府に求めた。しかし、それは5家の足並みを乱して反発を招き、また将軍の側室には大名の子女より迎えないという原則を破る批判もあった他、幕府側から見れば御三家をコントロールする機能の存続を期待された附家老が独立するということは機構上も許されることではないという構造的問題と限界があり、独立は認められなかった[4]
御三家以外の御附家老
駿河徳川家

徳川忠長駿河徳川家にも幕府から附家老が配置されたが、御三家附家老並の立場にあったのは朝倉宣正鳥居成次の2名であった。徳川秀忠の治世下において従二位権大納言は尾張家義直(61万9,500石、慶長5年生まれ)、紀州家頼宣(55万5,000石、慶長7年生まれ)、駿河家忠長(55万石、慶長11年生まれ)の3家で並んでおり、水戸家頼房(28万石、慶長8年生まれ)は権中納言で官位と石高で一段劣っていた。将軍家光の代になり忠長が甲州蟄居、高崎幽閉から最終的に切腹となり家が解散となると、家臣たちは他家預かりとなり、家臣団は解体させられたが、両附家老は他の家臣と異なり、忠長の行状を正すことができなかった監督責任を問われて改易され、冷遇された[2]。改易された出羽国最上氏の元家臣であった鮭延秀綱は秀忠より忠長の附家老となることを要請されたが、これを固辞したとされる。

朝倉宣正遠江掛川2万6,000石)寛永元年(1624年)より徳川忠長の附家老となる。寛永9年(1632年)忠長に連座し除封された。

鳥居氏甲斐谷村[郡内]3万5,000石)鳥居成次が元和2年(1616年)より徳川忠長甲斐府中20万石→駿河府中50万石)の附家老となる。2代忠房寛永9年(1632年)10月28日忠長に連座し除封された。

越前松平家

越前松平家は家康の次男秀康に附家老として本多富正が付けられ、秀康没後を継いだ忠直には加えて本多成重が付けられた。

本多氏(越前府中(武生)3万9,000石のち4万6,300石→半減)本多富正本多重次の甥)は側近として仕えていた徳川家康の次男・結城秀康が慶長6年(1601年)に越前藩一国68万石に入封した際に附家老として従い、府中3万9,000石を与えられ内政を発揮、次代の松平忠直の下でも引き続き執政・補佐を務め大坂の陣でも活躍。元和9年(1623年)2月に忠直が配流処分されたため、寛永元年(1624年)に同母弟・松平忠昌が相続した越前北ノ庄50万石に幕命により付属して、改めて府中4万6,300石を拝領した。以降幕末まで越前家筆頭家老として代々執政を行う。当初は鬼作左・本多重次自身、もしくはその子(後述の本多成重)を望まれていたのだが、陪臣扱いを嫌って甥(実父は死別。重次が養育)を代わりに立てたとも言われている。忠直の改易・流罪の際は独立大名化を打診されたが、越前松平家(藩初代の秀康)への恩義があると言って、正式な独立を固辞した。一方、幕府では大名待遇を受けており、大名行列を組んでの参勤交代、その際の長刀を掲げたまま、および駕籠に乗ったままでの関所通過を許可され、江戸城内においては柳の間詰め(四位以下の大名並)であり、幕府より浅草(後に本所)に江戸屋敷を拝領している。将軍家の慶弔行事では諸大名と並んで献上を行い、江戸在勤の折は将軍に必ず御目見え、拝領物を頂く慣例となっており、これらの待遇も独立大名並であった。福井本藩の御家騒動により本藩が半知減封処分とされた際、本多家の武生領も半減の2万石台となった。しかし明治維新のち廃藩置県後に本多家は陪臣として扱われ、旧大名家格ではない「士族」とされるが、旧家臣および旧領民らがこれを不服として明治3年(1870年)に武生騒動を起こした。武生騒動の影響もあり、明治12年(1879年)に改めて華族に列せられ、明治17年(1884年)に男爵となった。

本多氏(越前丸岡4万石)本多成重本多重次の子)は幕臣として5,000石を食んでいたが、慶長18年(1613年)松平忠直越前75万石)付の附家老となり、若年の忠直を前述の本多富正と共に支え、大坂の陣などに活躍。一説には重次が、送り込んだ甥の出世を見て、実子を福井藩にねじ込んだ(なので新参なのに石高が富正より少し高い)、ともされる。丸岡4万石を与えられ、丸岡城を居城とした。忠直が後に改易・流罪となった際、成重は幕府により独立大名化を打診され、寛永元年(1624年)5月に丸岡藩4.63万石の独立した譜代大名となった。

御三卿

江戸時代中期に創設された御三卿は将軍家における部屋住みとしての性格が強く、独自の領地を持たずに幕府から賄料(経費)を支給され、家中運営のための家臣も幕府から出向した幕臣の「御付人」と「御付切」、独自採用の「御抱入」から構成された。特に御付人は家老をはじめ「三殿八役」と総称された上級役職のみを担当した。御三卿の初代家老には、以下の通り各家2名が幕臣から任じられた[5]

田安徳川家(田安家):1729年享保14年)閏9月28日、西城新番頭であった森川俊勝と先手頭であった伏屋為貞。


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