御家人
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江戸時代には、御家人は知行が1万石未満の徳川将軍家の直参家臣団(直臣)のうち、特に御目見未満(将軍が直接会わない)の家格に位置付けられた者を指す用語となった。御家人に対して、御目見以上の家格の直参を旗本という。

近世の御家人の多くは、戦場においては徒士の武士、平時においては勘定所勤務・普請方勤務・番士もしくは町奉行所の与力同心として下級官吏としての職務や警備を務めた人々である。

御家人は原則として、乗り物や馬に乗ることは許されず、家に玄関を設けることができなかった。ここでいう乗り物には、扉のない篭は含まれない。例外として、奉行所の与力となると馬上が許されることがあった。有能な御家人は旗本の就く上位の役職に登用されることもあり、原則として布衣以上の役職に就任するか、3代続けて旗本の役職に就任すれば旗本の家格になりうる資格を得られた[注釈 1]
家格

御家人の家格は譜代(ふだい)、二半場(にはんば)、抱席(かかえせき)の3つにわかれる。譜代は江戸幕府草創の初代家康から4代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で特に由緒ある者は譜代席と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた。

譜代と二半場は、無役(幕府の公職に任ぜられていない状態)であっても俸禄の支給を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることができた。家督相続や叙任にあたっては、御家人は旗本のように将軍に謁見することはなかったが、譜代席のみは城中で若年寄や頭などの上司に謁見して申し渡された。譜代席未満の御家人は、城中ではなく自分の所属する機関で申し渡しがあった。

譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は次第に崩れていき、町奉行所の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに相場が生まれるほどであった[4]。譜代の御家人株も実際に売られており、河内山宗俊とつるんで悪事を働いて死罪になった「馬の沓」こと大川鉄蔵(高原八十次郎)は、元は下谷御切手町の居酒屋(煮売酒屋)の亭主で、譜代の御家人・黒鍬者の株を買っていたことが分かっている[注釈 2]。御家人株(御家人の資格)は幕府当初から半ば公然と売買が行われており[注釈 3]、特に盛んになったのは江戸後期である。嘉永頃には100石に付き50両や、与力1000両、同心200両、御徒500両という相場も成立していた[6]。このため安永3年、天保7年、嘉永6年には持参金付きの養子を禁じる法令も出されている[7]

御家人株を購入したものやその子孫でも栄達し、幕府の遠国奉行や勘定吟味役といった重職についた者もいる[8]勝海舟[注釈 4]もその一人である。
知行

御家人の大半は、知行地を持たない30俵以上、80俵取り未満の蔵米取で占められ、知行地を持つ者でも200石取り程度の小身であった。旗本は百石より一万石未満の知行所を貰ったが、御家人は原則として土地は与えられず、切米、扶持米などの俸禄をうけた。御家人の封禄は最高で二百六十石、最低給金は四両であった。

ただし、旗本と御家人の定義は直参のうち謁見できるかどうかであったので、家禄(俸禄)の高低は家格の決定に関係がなく、旗本で最も小禄であった者は50俵程度で、御家人の大半よりも少ない。200石(俵)取り以上の御家人もいたが、400石を越える御家人は存在しなかった。江戸時代中期以降には、地方知行制が崩れて蔵米取に移行したり、御家人から旗本に昇進したりしたため、知行地を持つ御家人はほとんどいなくなった。

御家人の多くは江戸時代中期(18世紀)以降、非常に窮乏し、1万7千人いた御家人中9割が薄給とされる[9]。諸の藩士は、家禄が100石(一般的に四公六民であったことから手取りは40石=100俵)あれば一応、安定した恵まれた生活を送れたとされるのに対し、幕府の御家人は100石(手取り100俵)取りであっても生活はかなり苦しかったと言われる。御家人は大都市の江戸に定住していたため常に都市の物価高に悩まされ、また諸藩では御家人と同じ程度の家禄を受けている微禄な藩士たちは給人地と呼ばれる農地を給付され、それを耕す半農生活で家計を支えることができたが、都市部の御家人にはそのような手段も取ることができなかったことが理由としてあげられる。窮乏した御家人たちは、内職を公然と行って家計を支えることが一般的であった。
備考

鎌倉前期までは女性の御家人も存在した
[10]。一例としては、河越尼がいる[11]

鎌倉初期の関東(八国の)御家人の数は、文治元年(1185年)に鎌倉に参集し、把握されているだけでも2096人[12][13](前述の鎌倉中期の総数と比して多く、後代になり、激減したことがわかる[注釈 5])。また、建久3年(1192年)時点で、鎌倉幕府の支配が比較的及ばない西国の大隅国伊予国でも30名ほどの御家人がいた[14]

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 小川恭一の研究によると、寛政重修諸家譜所載の旗本5158家中、御家人から昇格した家は1148家に上るという[3]
^ 黒鍬者は譜代の御家人ではあるが12俵二人扶持と薄給であった[5]
^ 竹越与三郎によると既に四代将軍家綱の寛文年間に、「婿養子を庶民からもらった」として幕府に届けたが、実は多額の礼金をとって庶民に跡を継がせているケースが有るという。寛文三年には幕府から「カネ目当ての結婚や養子縁組はしないように」という禁制さえ出ている[5]
^ 勝の曽祖父は高利貸しの米山検校で、息子の平蔵に御家人・男谷家の株を買ってやり、その男谷平蔵(海舟の祖父)が御家人・西丸持筒与力から旗本・勘定に昇格している。


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