御三卿
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なお、幕府儀礼における御三卿の席次は、御三家の当主とその嫡子の間に置かれたが、御三家の家格が尾張・紀州・水戸の順に固定していたのと異なり、御三卿はその時々に任官した順番が席の高低に反映された[1][18]。他に、御三卿の正室に対する尊称としては御三家正室と同じく「御簾中」が用いられた。

また、御三家以下の諸大名が江戸城への登城時には大手門から入城し、表御殿の各詰所に控えた一方で、御三卿は平川門から登城して本丸御殿中奥の内玄関(御風呂屋口)を経て、中奥の御控所(おひかえじょ)に入るという相違もあった[2][12][19]。将軍の生活空間である中奥に御三卿の詰所があったのは、将軍の最近親者としての御三卿に対する特別礼遇であった[2][19][20]
領地

御三卿の賄料は幕領より支給され、清水家創設前の1746年延享3年)にそれぞれ10万と定められた[2][注 10]。賄料を幕領から充てたのは、将軍の庶子を大名に取り立てると幕領が不足するおそれがあり、立藩を断念したためでもある[2][6]。御三卿領は関東畿内周辺の数か国に分散しており[2]、これらの支配は独自の代官所によって行われた。例として、田安家の摂津国長柄陣屋、甲斐国田中陣屋など、一橋家の大坂川口陣屋備中国江原陣屋、越後国金屋陣屋などがある。御三卿はいずれも独自の城を持たず、江戸城内に与えられた屋敷地に居住した[3]。しかし、御三卿領と家格維持のための支出は、次第に幕府財政を圧迫することとなった。

明治元年(1868年)、徳川宗家が静岡藩を立藩すると共に、田安家の徳川慶頼と一橋家の徳川茂栄もそれぞれ独立して立藩したが、田安・一橋の両藩は翌明治2年(1869年)の版籍奉還の際、他藩に先立ち廃藩し、かつ両藩主とも知藩事に任じられず、家禄を支給されることとなった(田安家は3148石、一橋家は3805石)[注 2]。明屋敷であった[注 2]清水家の家督を明治3年(1870年)に相続した徳川篤守も、家禄2500石を支給されるにとどまった。
家臣

将軍家の身内であった御三卿の家臣団(邸臣団)は、幕府から出向した幕臣旗本御家人)で、幕府の役職に復帰可能な「御付人」(おつけびと)と、幕臣の次三男で御三卿に出向したきりとなる「御付切」(おつけきり)、独自に採用した「御抱入」(おかかえいれ)の3種に区分された[2][5][6][12][21]。特に1767年明和4年)には、御付人は上級役職の「三殿八役」(さんでんはちやく、「八役」とも)のみを担当することと決められた[2][21][注 11]。三殿八役以外の役職には側衆・側用人・書院番頭などがあった[22]

俸禄の支給についても、御付人は直参として幕府から直接受け、幕臣でありながら陪臣として扱われる御付切は御三卿を介して幕府から受け取り、同じく陪臣とされる御抱入の俸禄は御三卿の賄料から支払われるなどの違いがあった[2][6]
家老

御付人が務める御三卿家老は定員2名で官位は従五位下諸大夫とされ、役料は幕府と御三卿からそれぞれ1000石を支給された[12]。江戸城においては菊間に詰め、幕府の側衆や他の御三卿家老と交渉した[12]。御三卿の初代家老には、幕臣の中から次の各2名が任じられている[23]

享保14年(1729年)閏9月28日 - 西御丸新番頭・森川俊勝と先手頭・伏屋為貞を田安家家老に。

享保20年(1735年)9月1日 - 先手頭・建部広次と小納戸・山本茂明を一橋家家老に。

宝暦7年(1757年)5月21日 - 小納戸・村上義方と簾中御方御用人・永井武氏を清水家家老に。

政治との関わり

御三卿創設の理由は上記のほか、将軍職継承に際して将軍家の「身内」である御三卿から後継者を選ぶことで、後継ぎ争いを未然に防ぐためであったとも言われている[2]

しかし、御三卿の家政を幕府に委任したことはまた、御三卿間の対立や幕府内の政争を激化させたという指摘もある。例えば御三家や御両典の当主は他藩主と同様に自らの所領と領民を持ち、家臣団を統括して藩政や家政を独自に運営し、かつ尾張・紀伊両藩の藩主は参勤交代で隔年の参府と領国下向を繰り返さなくてはならない。水戸藩主は常時定府で巷間で「副将軍」と呼ばれたが、それでも領国経営の必要はあり、かつ定府ゆえの紛糾が絶えなかった。しかし御三卿は常時江戸城内にあって、領国経営や家政運営の必要がなく、実質上は何もすることがなかった[注 12]。しかも江戸城中においては、実際の政治の担い手である老中大老よりも上位の席次にあった。このため幕府の政治に黒幕として関与することが可能で、実際それに執着するようになり、その結果将軍の跡目争いの絡む政争が激化したといわれる。

とりわけ、一橋家は2代治済とその子で第11代将軍家斉が多子だったこともあり、一時期は一橋家の血筋が代々の将軍をはじめ、御三卿・水戸家以外の御三家を含めた親藩のほとんどの当主、さらには外様大名福岡藩黒田家まで及ぶに至ったが[3]、幕末において宗尹の血筋は田安家でしか続かず、逆に御三家から庶子や隠居した元当主が入って一橋家や清水家を相続するという、創設当初には想定し得なかった事態が生じた。宗尹直系が絶えた一橋家の当主には慶喜が水戸家から入り、慶喜が将軍を継いだ後は、元尾張藩主で隠居の身であった徳川茂徳が茂栄と改名して一橋家を継ぎ、さらに慶喜の弟の昭武が明屋敷だった清水家を継いでいる。特に慶喜と昭武の祖父徳川治紀は女系ながら2代将軍徳川秀忠の血を引いている[注 13]。茂栄もさかのぼると水戸家の血を引いており、御三卿のうち2家が(将軍家や尾張家と共に)吉宗直系でない水戸家の血筋で占められることになったのである。なお、御三家からは当主本人だけでなく藩士も家臣として転属してきている。

近代の華族制度下で伯爵となった田安家の徳川達孝(徳川家達の実弟)と一橋家の徳川宗敬貴族院伯爵議員として政治に携わり、特に宗敬は第二次世界大戦後に最後の貴族院副議長を務め、参議院議員在職時にはサンフランシスコ講和条約調印の際、日本側全権委員に加わった。
系譜

徳川吉宗の血筋からの将軍家(宗家)および御三卿当主(戦前まで)

徳川吉宗
紀伊家5代
8代将軍                                      

                                               


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