徐羨之
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しかし劉義符は劉裕の葬儀に際しても礼節を保てず[7]、側近達と戯れに興じるばかりで政治を顧みなかった。徐羨之は傅亮や謝晦らと共に帝位の廃立を計画したが、しかしその場合後継者の第一候補となるのは劉裕の次男であった南豫州刺史の劉義真であった。そして徐羨之は劉義真が謝霊運らの貴族と近しい事を嫌っていたため[8]景平2年(424年)、徐羨之は劉義真の罪状を並べ立てて上奏し、劉義真は庶民に落とされて新安郡に流刑とされた[9]。これに反対した張約之は、梁州府参軍に左遷された後に殺害された[10]

同年、徐羨之は江州刺史の王弘と南?州刺史の檀道済に上京を求め、劉義符の廃立を伝えた後、皇太后の名を以て劉義符の営陽王への降格を決定した。檀道済は劉義真の誅殺には反対していたものの[11]、こちらの計画には反対しなかった。そして内応していた劉義符の側近である?安泰と潘盛に宮中を抑えさせ、檀道済と謝晦の軍を引き入れ、劉義符に退位を迫り皇帝の璽綬を没収した[12]。劉義符はその後呉郡に送られ、ほどなくして新安郡にいた劉義真と同時に暗殺された[13]

その後代わって劉裕の三男であった荊州刺史の劉義隆を皇帝(文帝)として即位させ、自らはその下で司徒に就き、並びに南平郡公に改封されたが、徐羨之は固辞して政界を退いた[14]。元嘉2年(425年)、徐羨之と傅亮は3度に渡って政治復帰を請願され、最終的にはこれを承諾した。当時、歩兵校尉の孔ィ子は徐羨之らの専横を嫌い、しばしば文帝に対して讒言を行った。

元嘉3年(426年)正月、文帝は徐羨之・傅亮・謝晦の3名に劉義符および劉義真殺害の罪を問い、徐羨之と傅亮に昇殿を命じた。これを知った徐羨之は首を吊って自殺した。
脚注^ 『宋書』巻5, 文帝紀 元嘉三年正月丙寅条による。
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「羨之少為王雅太子少傅主簿、劉牢之鎮北功曹、尚書祠部郎、不拜、桓脩撫軍中兵曹参軍」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「與高祖同府、深相親結。義旗建、高祖版為鎮軍参軍・尚書庫部郎・領軍司馬……」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「吾位至二品、官為二千石、志願久充。今二方已平、拓地萬里、唯有小羌未定、而公寝食不忘。意量乖殊、何可輕豫」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「劉穆之卒、高祖命以羨之為吏部尚書・建威将軍・丹陽尹……」
^南史』巻15, 徐羨之伝「帝欲用王弘代之。謝晦曰:「休元輕易、不若徐羨之。」」
^資治通鑑』巻120,「営陽王居喪無礼、好與左右狎?、遊戯無度」
^ 『宋書』巻61, 劉義真伝「徐羨之等嫌義真與霊運・延之?狎過甚」
^ 『宋書』巻61, 劉義真伝「乃廃義真為庶人、徙新安郡」
^ 『宋書』巻61, 武三王伝「前吉陽令堂邑張約之上疏諫曰……書奏、以約之為梁州府参軍、尋又見殺」
^ 『宋書』巻43, 檀道済伝「徐羨之将廃廬陵王義真、以告道済、道済意不同、屡陳不可、不見納」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「中書舎人?安泰・潘盛為内應、其日守関。道済領兵居前、羨之等継其後、由東掖門雲龍門入、宿衛先受處分、莫有動者」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「遣使殺義真於新安、殺帝於呉県」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「太祖即?、進羨之司徒、餘如故、改封南平郡公、食邑四千戸、固譲加封」

伝記資料

宋書』巻43 列伝第3


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