徐羨之
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その後代わって劉裕の三男であった荊州刺史の劉義隆を皇帝(文帝)として即位させ、自らはその下で司徒に就き、並びに南平郡公に改封されたが、徐羨之は固辞して政界を退いた[14]。元嘉2年(425年)、徐羨之と傅亮は3度に渡って政治復帰を請願され、最終的にはこれを承諾した。当時、歩兵校尉の孔ィ子は徐羨之らの専横を嫌い、しばしば文帝に対して讒言を行った。

元嘉3年(426年)正月、文帝は徐羨之・傅亮・謝晦の3名に劉義符および劉義真殺害の罪を問い、徐羨之と傅亮に昇殿を命じた。これを知った徐羨之は首を吊って自殺した。
脚注^ 『宋書』巻5, 文帝紀 元嘉三年正月丙寅条による。
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「羨之少為王雅太子少傅主簿、劉牢之鎮北功曹、尚書祠部郎、不拜、桓脩撫軍中兵曹参軍」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「與高祖同府、深相親結。義旗建、高祖版為鎮軍参軍・尚書庫部郎・領軍司馬……」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「吾位至二品、官為二千石、志願久充。今二方已平、拓地萬里、唯有小羌未定、而公寝食不忘。意量乖殊、何可輕豫」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「劉穆之卒、高祖命以羨之為吏部尚書・建威将軍・丹陽尹……」
^南史』巻15, 徐羨之伝「帝欲用王弘代之。謝晦曰:「休元輕易、不若徐羨之。」」
^資治通鑑』巻120,「営陽王居喪無礼、好與左右狎?、遊戯無度」
^ 『宋書』巻61, 劉義真伝「徐羨之等嫌義真與霊運・延之?狎過甚」
^ 『宋書』巻61, 劉義真伝「乃廃義真為庶人、徙新安郡」
^ 『宋書』巻61, 武三王伝「前吉陽令堂邑張約之上疏諫曰……書奏、以約之為梁州府参軍、尋又見殺」
^ 『宋書』巻43, 檀道済伝「徐羨之将廃廬陵王義真、以告道済、道済意不同、屡陳不可、不見納」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「中書舎人?安泰・潘盛為内應、其日守関。道済領兵居前、羨之等継其後、由東掖門雲龍門入、宿衛先受處分、莫有動者」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「遣使殺義真於新安、殺帝於呉県」
^ 『宋書』巻43, 徐羨之伝「太祖即?、進羨之司徒、餘如故、改封南平郡公、食邑四千戸、固譲加封」

伝記資料

宋書』巻43 列伝第3


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