後鳥羽天皇
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事実かどうかは判断できないものの、『平家物語』にも能円が妻と親王を連れて落ちようとした際に範子の弟である藤原範光に阻止されて能円一人で落ちていく場面がある[4]。これに従わなかった後白河法皇公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題その他政務の停滞を解消するために、安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は、再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例があると勅答している(『玉葉』寿永2年8月6日条。ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)。10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。

新帝の候補者としては義仲が北陸宮を推挙していたが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めた。これは丹後局の進言を容れたものだという。安徳天皇の異母弟のうち、尊成の同母兄でもある守貞親王乳母平知盛正室治部卿局であったこともあって安徳天皇と共に平家に西国に連れ出され、惟明親王は法皇の側妾坊門局の姪を母親としていたが唯一の後見人と言える法皇の寵臣平信業(坊門局の兄で親王の大伯父にあたる)が既に死去していたことで候補から消えたと考えられている[5]

8月20日、尊成親王は後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し(後鳥羽天皇)、その儀式は剣璽渡御を除く譲国の儀に倣って行われた。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、やはり剣璽なきまま行われた。

安徳天皇が在位のまま後鳥羽天皇が即位したため、寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)までの2年間は両帝の在位期間が重複する。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収できず、文治3年(1187年)9月27日に佐伯景弘から宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上終結した。建久元年(1190年)1月3日に行われた天皇の元服の儀も剣璽を欠いたまま行われた。その後は、平家都落ちの直前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として当面の間宝剣の代用とすることになり、建久9年(1198年)の土御門天皇への譲位もこれで乗り切った。そして承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、後鳥羽上皇はこの形代の剣を以後は正式に宝剣とみなすこととした。それでも2年後の建暦2年(1212年)になって検非違使藤原秀能を今一度西国に派遣して宝剣の探索にあたらせている。

皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま登極した後鳥羽は、このことが耐えがたいコンプレックスとなって苛まされ続けたであろうことは想像に難くない[注 1]。また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[注 2]。後鳥羽はこのひけめを克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[8]
治世

建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いた。後白河院の崩御後は関白・九条兼実が朝廷を主導した。兼実は源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、後に頼朝の娘の入内問題から後鳥羽天皇と関係が疎遠となった。これは土御門通親丹後局の策謀によるともいわれる。建久7年(1196年)、通親の娘に皇子が産まれたことを機に政変が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子中宮の位を奪われ、宮中から追われた(建久七年の政変)。この政変には頼朝の同意があったともいう。また兼実の過度な権勢や院近臣家出身の国母七条院藤原殖子)に対する無礼などが後鳥羽天皇の怒りと不信を招いた面もあったとみられる。
院政

建久9年(1198年1月11日土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳仲恭承久3年(1221年)まで、3代23年間に亘り太上天皇として院政を敷く。上皇になると通親をも抑え、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採る一方で、正治元年(1199年)の頼朝死後も台頭する鎌倉幕府に対しては融和的な姿勢で応じた。建仁元年(1201年)に京で挙兵した城長茂による幕府追討宣旨の要求も拒否し、逆に幕府の要求により長茂追討宣旨を下している(建仁の乱)。

建仁2年(1202年)に兼実が出家し、通親が急死した。既に後白河法皇・頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。翌年の除目は上皇主導で行われ、藤原定家は「除目偏出自叡慮云々」と記している(『明月記』建久3年1月13日条)。また、公事の再興・故実の整備にも積極的に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。その厳しさを定家は「近代事踏虎尾耳」(『明月記』建暦元年8月6日条)と評している。

建仁3年(1203年)に比企能員の変で将軍源頼家が失脚し、幕府が頼家は死去したと偽って弟千幡の将軍就任を要請してくるとそれを認め、上皇が自ら「実朝」の名乗りを定めた(『猪隈関白記』建仁3年9月7日条)。後に頼家は存命であることがわかるが不問に付しており、幕府の実権を握る北条時政と友好関係を築いて、京都守護として上洛した時政の娘婿の平賀朝雅を厚遇し、元久元年(1204年)に伊勢国伊賀国で起こった三日平氏の乱平定の命を受けた朝雅を伊賀国知行国主に任じている。さらに朝雅を院の殿上人として重用した。

元久2年(1205年)に幕府で牧氏事件が起こり時政が失脚すると、幕府の実権を握った北条政子義時姉弟からの命令で朝雅は在京御家人に追討された。寵愛する朝雅が幕府側の事情で討たれたことに衝撃を受けた上皇は、それを機にそれまでの北面の武士に加えて西面の武士を設置して独自の武力を編成することを企図し始めたとする説がある。

建永元年(1206年)、上皇の熊野詣中に院の女房たちが法然門下の遵西住蓮の東山鹿ヶ谷草庵で念仏法会に参加し出家して尼僧となった。この事件に怒った上皇は、承元元年(1207年)に専修念仏を停止して法然・親鸞らを配流している(承元の法難)。

牧氏事件の後は実朝を取りこむことで幕府内部への影響力拡大を図った。実朝は上皇の従妹でもある上皇の寵臣坊門信清の娘西八条禅尼を正室に迎えており、上皇もまた信清の娘坊門局を后妃の1人としていたため、上皇と実朝は合婿の義兄弟関係となっていた。実朝自身も上皇を敬愛する人物だったため、朝幕関係は一時安定期を迎える。やがて幕府は子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる親王将軍の構想を打ち出したが、建保7年(1219年)に実朝が甥の公暁に暗殺されたことでこの関係にも終止符が打たれ、親王将軍も上皇は拒絶した。『愚管抄』では上皇は日本を2つに割ることになると危惧したとしている。幕府は重ねて親王の下向を要請したが、それに対して上皇は寵姫である亀菊の所領荘園の地頭廃止を要求した。幕府はこれを拒否して、北条時房に千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、上皇も幕府も態度が強硬で交渉は不調に終わった[注 3]。ただし上皇は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと渋々ながらも妥協案を示したため、幕府はやむなく親王将軍をあきらめ、頼朝の妹の曾孫にあたる九条道家の子である三寅(後の藤原頼経)を4代目の鎌倉殿として迎え入れた。

三寅が鎌倉に下向して間もなく大内守護である源頼茂が上皇の命を受けた在京武士に襲われ、内裏の仁寿殿に籠って自害を遂げ、その際の火災によって仁寿殿ばかりか宜陽殿・校書殿など、内裏内の多くの施設が焼失した。この原因については、頼茂が将軍の地位を狙ったとする説や頼茂が上皇の討幕の意図を知ったからとする説、後鳥羽院政下における廷臣同士の権力闘争が原因とする説など諸説ある。上皇は堀川通具上卿として内裏再建を進め、全国に対して造内裏役を一国平均役として賦課した。


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