後鳥羽天皇
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ただし、これを提案したのは土御門定通とする説もある[14]。後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3年(1242年)7月には正式に院号が「後鳥羽院」とされた。
歌人として百人一首の札の一つ「後鳥羽院」 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は後鳥羽院歌碑、鴨川畔、京都市左京区下堤町

後鳥羽院(ごとばいん/ごとばの いん)は中世屈指の歌人であり、その歌作は後代にまで大きな影響を与えている。

院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年(1198年)1月の譲位、ならびに同8月の熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり、正治元年(1199年)以降盛んに歌会歌合などを行うようになった。院は当初から、当時新儀非拠達磨歌と毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、ことにその中心人物だった藤原定家の歌風に憧憬の念を抱いていたらしく、正治2年(1200年)7月に主宰した正治初度百首和歌では、式子内親王九条良経藤原俊成慈円寂蓮藤原定家藤原家隆ら、九条家歌壇の御子左家系の歌人に詠進を求めている。この百首歌を機に、院は藤原俊成に師事し、定家の作風の影響を受けるようになり、その歌作は急速に進歩してゆく。同年8月以降、正治後度百首和歌を召す。対象となった歌人は飛鳥井雅経源具親鴨長明後鳥羽院宮内卿ら院の近臣を中心とする新人。この時期、院は熱心に新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせており、これが後に九条家歌壇、御子左家の歌人らとともに代表的な新古今歌人として成長する院近臣一派の基盤となる。

2度の百首歌を経て和歌に志を深めた院は勅撰集の撰進を思い立ち、建仁元年(1201年)7月には和歌所を再興する。寄人は藤原良経、慈円、土御門通親、源通具、釈阿(俊成)、藤原定家、寂蓮、藤原家隆、藤原隆信藤原有家六条藤家)、源具親、藤原雅経、鴨長明、藤原秀能の14名(最後の3名は後に追加)、開闔(かいこう)は源家長である。またこれより以前に未曾有の歌合・千五百番歌合を主宰した。当代の主要歌人30人に百首歌を召してこれを結番し、歌合形式で判詞を加えるという空前絶後の企画だったが、この歌合は、新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長などの面から見ても日本文学史上大きな価値を持つ。さらにこのような大規模な企画を経て、同年11月には藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』撰進がはじまった。同集の編集にあたっては、『明月記』そのほかの記録から、院自身が撰歌、配列などに深く関与し、実質的に後鳥羽院が撰者の一人であったことも明らかになっている。

また、室町時代の皇族貞成親王後花園天皇実父)が著した日記『看聞日記』応永31年2月29日条(高松宮家旧蔵本)には後鳥羽院の宸記(日記)のうち、建保3年5月15日・19日および11月11日条の一部が引用されている。そこには、院が御忍びで地下連歌の席に出向いて、当時自らが出していた銭禁令(宋銭禁止令)に反してを賭けて勝利したこと、後日このことを「見苦し」としながらも再び連歌で賭け事をしたことが記されている[15]
後世の評価

後白河法皇の崩御後は自ら親政および院政を行ったが、治天の君として土御門天皇を退かせて寵愛する順徳天皇を立て、その子孫に皇位継承させたことには、貴族社会だけでなく他の親王たちからの不満も買った。また三種の神器を欠いた即位の経緯も不評を買った。専制的な暴政や無謀な挙兵計画に対しては、院の側近以外の貴族たちは冷ややかな対応に終始した。このため、承久の乱後においては、幕府の政治的影響力の拡大を差し引いても後鳥羽院に同情的な意見は少なく、『愚管抄』・『六代勝事記』・『神皇正統記』などはいずれも、「院が覇道的な政策を追求した結果が招いた、自業自得の最期であった」と手厳しいものがあった。

寛元2年(1244年)には後鳥羽上皇の追善八講が公家沙汰(朝廷主催の行事)に格上され、宝治2年(1248年)には後嵯峨上皇が後鳥羽上皇が定制化したものの承久の乱で中絶した院御所最勝講を先例として復活させた。これは、土御門天皇系の後嵯峨上皇(天皇)が皇位継承を巡って緊張関係にあった順徳天皇系の忠成王(仲恭天皇の弟)に対抗するために、土御門系が後鳥羽上皇(天皇)の正統な後継者であることを主張する必要があり、その前提として後鳥羽上皇の名誉回復を進める必要があったためである。これは、忠成王支持派を抑えて後嵯峨天皇即位を強行した鎌倉幕府の暗黙の了承の上での行為であった[16]。もっとも、後鳥羽上皇の崩御後に追善八講を行って来た修明門院(忠成王は彼女に養育されていた)はこの方針に反発し、修明門院が薨去する文永元年(1264年)まで、法要の主導権を巡る両者の対立が続いた[17]。なお、後鳥羽上皇が一度は拒絶した宮将軍の構想が、後嵯峨上皇の院政下で実現した(初代の宮将軍は後嵯峨上皇皇子の宗尊親王)背景には、後鳥羽上皇(天皇)の正統な後継者を巡る土御門系と順徳系の争いにおける土御門系の巻き返し工作の一環であったとする説が浮上している[18]

一方、鎌倉幕府滅亡後には、歌人としての後鳥羽院を再評価しようとする動きも高まった。『増鏡』における後鳥羽院はこうした和歌をはじめとする「宮廷文化の擁護者」としての側面をより強調している。
交野八郎

古今著聞集によれば(巻12、偸盗)、交野八郎と呼ばれる強盗の親玉がおり、後鳥羽上皇みずから船を召し西面の武士を指揮して、今津(琵琶湖の今津[19])で召し取りになられた。そのさい西面の武士の囲いをたやすく逃げ回っていたものの、上皇みずから櫂を取られたところ、八郎はたやすく捕らえられた。のち水無瀬殿に引き出して上皇が問うたところ「捕まったのは、上皇が船をこぐ櫂をあたかも扇のように扱うのを見て運が尽き力が失せたためです」と応えたという。のち許されて中間として仕えたという[20][21]
怨霊としての後鳥羽院

配流後の嘉禎3年(1237年)に後鳥羽院は「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との置文を記した[22]。また同時代の公家平経高の日記『平戸記』には三浦義村北条時房の死を後鳥羽院の怨霊が原因とする記述があり、怨霊と化したと見られていた[23]。顕徳院から後鳥羽院への追号の変更はそうした怨霊説の払拭の意味もあったと考えられているが、別の角度からの見方として怨霊説は後鳥羽院が生前に志向していた順徳天皇系による皇位継承には有利な言説で、土御門天皇系である後嵯峨天皇の即位に対する批判の根拠に成り得たからとする説もある[24]
御所焼・菊紋

を打つことを好み、備前一文字派の則宗をはじめとして諸国から鍛冶を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられる。また自らも焼刃を入れそれに十六弁の菊紋を毛彫りしたという。これを「御所焼」「菊御作」などと呼ぶ。皇室の菊紋のはじまりである。
系譜

後鳥羽天皇の系譜

                 

 16.
第73代 堀河天皇
 
     

 8. 第74代 鳥羽天皇 
 
        

 17. 藤原苡子
 
     

 4. 第77代 後白河天皇 
 
           

 18. 藤原公実
 
     

 9. 藤原璋子 
 
        

 19. 藤原光子
 
     

 2. 第80代 高倉天皇 
 
              

 20. 平知信
 
     

 10. 平時信 
 
        





 5. 平滋子 
 
           

 22. 藤原顕頼
 
     

 11. 藤原祐子 
 


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