後醍醐天皇
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^ 室町幕府を創設した初代征夷大将軍足利尊氏は、後醍醐天皇を心情的にも政策的にも肯定した(#足利尊氏からの評価)。尊氏の腹心として改革を行った幕府初代執事高師直は、後醍醐の政策の多くを方向性は正しいと認め、非効率的な部分に改良を加えた上で幕府に採用した(亀田俊和説)[7]。後醍醐崩御後に南朝の実権を握った准三宮歴史家思想家北畠親房は、人材政策面で後醍醐に苛烈な批判を展開しつつも、学芸の振興については高い評価を与え、また宗教政策・訴訟制度改革についても賞賛し、総評としては名君としている(#北畠親房からの評価)。また、親房は思想上は後醍醐の人材政策を嫌悪したが、実務上はその人材政策を積極的に採用している(同節参照)。
^光明寺残篇」「梨本青蓮院両門跡の竹園はこれを捕り奉るべし、彼の門跡方の事に於いては、諸事大塔二品親王の下知を相伺うべし、違勅の北嶺法師等は、仰せ下ささるの交名に任せ、時剋を廻らさず追罰すべし」
^ 『梅松論』「宮の御謀叛、真実は叡慮にてありしかども、御科を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞ聞えし。宮は二階堂の薬師堂の谷に御座有りけるが、武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふと御独言有りけるとぞ承る。」
^ 『太平記』巻第十六「円心不肖の身を以て、元弘の初大敵に当り、逆徒を責却候し事、恐は第一の忠節とこそ存候しに、恩賞の地、降参不儀の者よりも猶賎く候し間、一旦の恨に依て多日の大功を捨候き。乍去兵部卿親王の御恩、生々世々難忘存候へば、全く御敵に属し候事、本意とは不存候。所詮当国の守護職をだに、綸旨に御辞状を副て下し給り候はゞ、如元御方に参て、忠節を可致にて候。」
^ 『太平記』巻第十六「(中略)手の裏を返す様なる綸旨をば、何かは仕候べき。」
^ 後醍醐天皇即位前後の記録所は、朝廷の問題から土地に関する民事まで幅広い訴訟に対応した。
^ 一方、細川重男は、後醍醐天皇が尊氏を寵遇したのは、「駒」の一つとしてであり、心の底からのものではなかったのではないか、としている[69]
^ 足利尊氏寄進状建武2年(1335年3月28日付(『神奈川県史』資料編3所収)[75]
^ 「将軍足利尊氏寄進状案」「将軍足利尊氏御教書案」(『神奈川県史』資料編3所収)、「惟賢灌頂授与記」(『鎌倉市史』史料編1所収)[75]
^建武年中行事』「行末のかゞみまではなくとも、おのづから、またその世にはかくこそ有けれ、などやうの物語のたよりには成なんかし」[86]
^ 例外の2回は、華厳宗の俊才に対する「俊才国師」と、浄土宗の如一に対する「如一国師」(なお、内田 2010の本文では如一が臨済宗と誤植されている)[92]
^ ただし、この時期の治天の君後宇多法皇である[1]
^ 保立道久は、さらに北畠親子北畠師親の娘)の大徳寺への寄進と、後醍醐・親子の子とされてきた天台座主・尊雲法親王(護良親王)との関係について論じている[103]。しかし親子は護良の母ではないという説もあり(護良親王#誕生)、詳細は不明。
^ なお、岡野友彦は、後醍醐天皇と度会家行の間の良好な関係に加えて、「法楽舎」(中世の伊勢神宮に置かれた仏教施設)へは村上源氏支配の強い醍醐寺から僧侶が送られることが多かったことを指摘し、北畠家が村上源氏の一員であることも、北畠親房が伊勢神宮に地盤を築くことに間接的に寄与したのではないか、と述べている[115]
^ なお、佐藤進一の『南北朝の動乱』(1965年)など古い研究書では、親房は前もって伊勢神道を身につけており、その(親房自身の)縁で家行を頼ったのだと解説されていた[116]。しかし、白山芳太郎の『北畠親房の研究』(1998年)は親房の思想形成史を調べ、伊勢下向以前に親房が伊勢神道を学んだことはないと結論付けており、岡野友彦も白山説を支持している[116]
^ 延喜・天暦の治醍醐天皇から村上天皇の治世である897?967年のこと。14世紀の人間はこの頃を日本の最盛期と考えていた。
^ 昭和初期、平泉澄によってこの綸旨が後醍醐天皇自筆であることは既に指摘されていたが(『建武』8巻1号、昭和18年)、第二次世界大戦後、皇国史観への反動から平泉の学説と業績が忘れ去られると共に、この史料も長く埋もれていた[161]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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