この混乱により、398年1月には慕容宝から後燕南部の支配権を任されていた車騎大将軍で叔父の慕容徳が滑台(現在の河南省安陽市滑県)で燕王を称して自立、南燕を建てたため、後燕は分裂した[6]。2月、慕容宝は無謀な中山奪還を敢行して北魏軍に大敗し、5月に龍城において蘭汗に殺害された[5]。蘭汗は昌黎王を自称しており、慕容氏の皇族でもないため、後燕はいったん滅亡したことになるが[5]、7月に慕容宝の庶長子の慕容盛が蘭汗を殺害し、長楽王として即位して後燕を再興した[5]。慕容盛は10月に皇帝に即位したが、この頃になると内紛と北魏の圧力により、後燕は遼東と遼西を支配するだけの小国に没落しており、慕容盛は国力増強を目指すも実現せず、400年1月には自ら庶民天王に位を貶号するほどだった[5]。
401年7月、慕容盛が禁軍の反乱により殺害されたため、新天王には叔父の慕容熙が皇太后の丁氏により迎えられた[5]。後燕は北魏の外圧を受け続け[5]、高句麗・契丹遠征を繰り返して国力を消耗した[6]。
407年7月、慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋に殺害された[6]。これにより、後燕は完全に滅亡した[6]。
ただし馮跋は、次の皇帝に慕容宝の養子の慕容雲(高雲)を擁立しており、また国号も燕(北燕)としたことから、後燕の滅亡、北燕の建国が馮跋自身の即位した409年とされることもある[7]。
年表
384年 : 建国。慕容垂、?を包囲。
385年 : 高句麗、後燕を破り、遼東に進出。後燕将軍慕容農、夫余余巌を攻め殺す。
394年 : 慕容垂、華北東部に移動してきた西燕と衝突し、これを滅ぼす。
395年 : 後燕軍、参合陂の戦いで北魏軍に大敗。
396年 : 燕王慕容垂、軍を率いて北魏を攻めるが、陣中で病没。太子慕容宝即位。
397年 : 魏王拓跋珪、燕の都である中山を攻撃。燕王慕容宝、龍城に逃走。
398年 : 慕容徳、滑台(現在の河南省安陽市滑県)に自立して燕王を称す(南燕)。
400年 : 慕容盛、高句麗を攻撃して、遼東を奪回。
401年 : 慕容盛が暗殺され、太后丁氏が慕容熙を擁立。
402年 : 高句麗、後燕の宿軍城(現在の遼寧省錦州市北鎮市)を陥落させる。
405年 : 慕容熙、高句麗の遼東城を攻めるが勝たず。
407年 : 後燕の漢人将軍馮跋が慕容熙を廃し、高雲を擁立(北燕)。
後燕の皇帝
世祖成武帝(慕容垂)(燕王:384年 - 386年、皇帝:386年 - 396年)…慕容?の五男。
烈宗恵愍帝(慕容宝)(皇帝:396年 - 398年殺)…慕容垂の四男。
開封公(慕容詳)(397年殺)…中山で皇帝を僭称する。
趙王(慕容麟)(397年)…慕容詳を殺して皇帝を僭称する。
昌黎王(蘭汗)(398年殺)…慕容宝を殺して即位。
中宗昭武帝(慕容盛)(皇帝:398年 - 400年、庶民天王:400年 - 401年殺)…慕容宝の長男。蘭汗を殺して即位。
昭文帝(慕容熙)(皇帝:401年 - 407年)…慕容垂の末子。
年号
燕元(384年 - 386年)
建興(386年 - 396年)
永康(396年 - 398年)
建始(397年)
延平(397年)
青龍(398年)
建平(398年)
長楽(399年 - 401年)
光始(401年 - 406年)
建始(407年)
脚注[脚注の使い方]^ a b c 三崎 2002, p. 103.
^ 三崎 2002, p. 76.
^ a b c d e f g 三崎 2002, p. 104.
^ a b c d e f g h i j 三崎 2002, p. 105.
^ a b c d e f g h 三崎 2002, p. 106.
^ a b c d 三崎 2002, p. 107.
^ 三崎 2002, p. 109.
参考文献
三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』東方書店、2002年2月。
関連項目
五胡十六国時代