後漢末
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打ち続く戦乱(193年?196年)

長安の宮廷を支配すると李?や郭、樊稠は国家財政に一切の配慮をせずにやりたい放題であった。同時に中国中の各地の群雄が領土を拡張したり個人的な興味を推し進めるために互いに戦った。群雄の全員が名目上は献帝を中国の君主と認識しながらも李?軍と戦い続ける者がいる一方で李?軍と友好的な群雄がいた。

193年に北部の群雄劉虞公孫?の間で武力衝突が発生した。公孫?が継続的に袁紹に対して戦争を行った一方で劉虞は戦乱に強硬に反対した。劉虞と公孫?は献帝を偲びながら互いを攻撃し合った。やがて劉虞は公孫?を許せなくなり、公孫?を攻撃したが、敗北し殺された。

195年に李?と郭が樊稠を殺すと混乱が起き、後に互いの対立に発展した。郭が官吏を誘拐した一方で李?は献帝を人質にし、双方が交戦した。この年の後半に李?と郭は和睦し献帝が嘗ての首都洛陽に戻ることに合意したが、後にこの決定を後悔し献帝を追い求めた。李?と郭が再び献帝を捕らえられないでいる一方で宮廷は貧しくなり自活できなかった。洛陽は董卓の時代に火災で完全に破壊されたので、洛陽は生活必需品が欠乏し、多くの官吏は餓死したり共食いに走った。この頃袁紹の軍師沮授は政府を効果的に支配できるために献帝を自分の領域に迎え入れることを提案した。献帝を領域に引き入れれば主要な決定で皇帝に屈し適切な儀礼上のしきたりを守る必要があると言って他の軍師郭図淳于瓊は沮珠の意見に反対した。袁紹は躊躇し続け、皇帝を迎え入れるか結論を下さなかった。
曹操の下で漸進する再統一(196年?207年)
曹操皇帝を有名無実の権威として利用する

袁紹が依然献帝を迎え入れるか決められずにいる間に曹操は皇帝を自分の領域に引き入れる状況で優位に立った。当時曹操は依然(現在の山東省西部と河南省東部を含む)?州のみを支配する比較的弱小の群雄であった。196年に曹操は洛陽に向けて軍を率いた。自分の忠誠心を確信させながら(李?と郭から献帝を匿っていた)董承楊奉に出会い、皇帝への謁見が許された。名目上曹操は他の官吏や貴族と権力を共有していたが、実態は曹操が支配していたにも関わらず、官吏や貴族は然るべき敬意を以て扱われることを保証し、従って宮廷では僅かな反対を受けた。後に新しい首都を建設しながら許(現在の河南省許昌市)の本拠地に皇帝を連れ戻した。

その時から曹操は献帝の臣民であったが実際は国家権力を行使し宮廷を牛耳った。それにも関わらず曹操は献帝を軽視する様子は決して見せず、その代わりに正式な儀式上のしきたりに従って皇帝に敬意を示した。事実上実際は曹操に提出する場合でも皇帝に提出するよう命じながら曹操は他の群雄に献帝の名前で勅令も発した。袁紹は曹操の勅令を受け取った群雄の一人で、その時になって袁紹は他の群雄を支配するのに皇帝を利用する機会を逸したことに気付いた。
曹操権力への道を昇る(196年?199年).mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}四川省で出土した頭絡無口のある後漢の釉薬を塗った馬の陶製像:2世紀後半から3世紀前半動物の足の付いた後漢の釉薬を塗った陶製の化粧品

許の新しい首都に移った後でさえ中央政府は依然として資金と食糧供給が不足していた。棗祇からの提案に従い曹操は兵士が作物を育てるために送られる農業生産を増進し収穫は軍と民間で共有する新しい屯田政策を実施した。この政策は許周辺地域が高い生産力を誇る農地に発展する立派な結果をもたらし、食糧が欠乏する問題は解決された。

当時最も名の知られた群雄は以下の通りであった。

袁紹は(現在の河北省山西省山東省を含む)冀州并州、青州(英語版)を支配した。領土の一部は袁紹の3人の息子(袁譚袁煕袁尚)と甥(高幹)が統治した。

袁術は現在の安徽省の大半と江蘇省の一部を支配した。

公孫?は現在の北京市天津市遼寧省西部を含む幽州を支配した。

劉表は(現在の湖北省湖南省を含む)荊州を支配した。

劉璋は(四川盆地を含む)益州を支配した。

呂布は以前の統治者劉備から(現在の江蘇省北部を含む)徐州の支配を簒奪した。

他に依然として多くの弱小群雄がいて、曹操は特にこの群雄が投稿するように仕向けようとした。197年に張?が宛城で曹操に降伏した。しかし後に張?に怒りながら曹操は張?の未亡人の恐れを抱いた。張?は自分への曹操の暗殺計画を知り反乱を起こし宛城で曹操に対して驚くべき攻撃を開始した。この戦いで曹操の長男曹昂、甥の曹安民、衛兵の典韋が死に、曹操自身九死に一生を得た。賈?の助言で張?は結局199年-200年の冬に曹操に降伏した。加えて197年に曹操は説得して現在の陝西省の殆どと甘粛省に当たる地域を支配する馬騰韓遂を降伏させられた。

この年他の群雄が袁術を攻撃する口実として「天子」を使うよう駆り立てる、寿春(現在の安徽省寿県)で袁術はこの行動が漢に対する反逆罪であると認識する、「天子」を自称した(袁術討伐戦(英語版)を参照)。孫堅の息子の孫策は194年から199年に江南孫策の江東平定を行い、袁術との同盟関係を終わらせ、独立した群雄になった。呂布も嘗ては袁術と同盟関係があったが袁術との連携を止め寿春近くで大敗させた。曹操も袁術を攻撃し破った。袁術は袁紹と結ぼうと北に逃れようとしたが、進路は塞がれ、199年に寿春に戻るところで病のために没することになる。

198年に袁紹は曹操から献帝を奪い取ろうとして自身の領土に近い?城(現在の山東省?沢市)に首都を動かすよう曹操を説得しようとしたが、曹操は拒否した。この年の後半に曹操は呂布を攻撃するために劉備と連合軍を形成し、下?の戦いで破った。呂布は捕らえられ、曹操の命令で処刑され、徐州は曹操の支配するところとなった。

199年に公孫?は易京の戦い(英語版)で袁紹に敗れ自分に火を放つことで自殺した。公孫?の領土は漢の北の国境に広がったが完全に袁紹に併合された。袁紹はこの時中国中央部の新興勢力曹操のいる南に注意を向けた。袁紹は劉表と同盟し、曹操攻撃に集中した。
官渡の戦い(200年?201年)200年-207年の袁一族からの曹操の征服詳細は「官渡の戦い」を参照

部隊が公孫?との戦いの後で疲れ果て休息が必要だと論じる沮授田豊の助言に反して袁紹は自分の大軍が曹操軍を容易に押し潰せると自信に満ちて曹操との戦争を準備した。曹操が戦闘に向けた準備をする一方で董承や劉備など数人の官吏が曹操を倒そうと共謀していた。200年前半に曹操が徐州の知事に任命した車冑を殺すと劉備は曹操と袂を分かつ機会を利用して徐州の支配を簒奪した。一方董承等は曹操を暗殺する計画を作成中であった。しかしこの企みが露見し首都の共謀者は全員家族と共に虐殺された。袁紹からの攻撃用に側面を開けたままこの時曹操は徐州の劉備を攻撃することで危険を冒した。しかし袁紹が曹操を攻撃する機会を捉えるよう田豊の助言を無視したために曹操は正しい選択をした。劉備は敗れ袁紹と結ぶために北に逃れた。劉備の将軍関羽は降伏し、一時曹操に仕えた。

劉備が敗れてすぐに袁紹は曹操を攻撃する計画を実行に移し始めたが、この時は機会は過ぎたと言って田豊はこの決定に反対した。袁紹は田豊に怒り曹操を攻撃しに南下すると田豊を収監した。白馬の戦いで袁紹の別の将軍文醜が曹操軍に対する行動で殺された一方で袁紹の将軍顔良は関羽に殺された。袁紹軍の戦意は二人の将軍が敗北したことで大きく影響した。

200年後半までに袁紹軍と曹操軍は遂に黄河の南官渡(現在の河南省鄭州市)で衝突した。袁紹は二つの点で曹操より優位に立っていたが(大量の軍勢と大量の補給)、曹操軍の方が良く訓練されていた。小規模な小競り合いの後で曹操が烏巣の淳于瓊が守っていた袁紹の兵站貯蔵所に対して驚くべき攻撃のために自ら部隊を分遣するまで双方は行き詰まった。烏巣に援軍を送る代わりに袁紹は曹操の宿営地を攻撃するのに張?と高覧を派遣したが、失敗した。その後曹操軍に徹底的に打ち破られる烏巣の陥落は袁紹軍の士気に大きな打撃を与えた。殆どの兵士が殺されるか曹操に降伏した一方で袁紹は黄河の北に逃れた。この時から袁紹は主な有力者として残り続けたが最早曹操の拡大する覇権に太刀打ちできなかった。曹操は官渡の戦いに決着を付ける倉亭の戦い(201年)で黄河の南の残る袁紹軍を破壊し破った。
袁連合の崩壊(202年?207年)打虎亭漢墓(英語版)の二輪馬車と騎兵隊を表す後漢後期の壁画

袁紹が202年に病で死ぬと後継争いが長男の袁譚と三男の袁尚の間で起こった。袁紹が死ぬ数年前に伝統的な後継制度に基づき袁譚が法定推定相続人に指名されるはずであったが、袁紹の妻劉氏が袁尚がお気に入りであったために袁紹は自身の死後に袁尚のオジ袁成の養子とさせた。


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