後漢書
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後に、南朝梁劉昭は、范曄の『後漢書』に、西晋司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を併合し、全体に注釈を付けた。ここで、現在の范曄の本紀・列伝と司馬彪の志からなる『後漢書』が成立した[7]

なお、後漢末期の事績についての記述は『三国志』と重複する部分も多いが、成立年代は陳寿『三国志』が、一世紀半先行する。
構成と本文の概要

『後漢書』は後漢王朝の栄光と衰退を綴ったものであり、文章は名文として名高い。構成についても先行する史書と比べても著しい特色があるとされる。以下、内容を簡単に説明しながら後漢書の構成について記す。後漢書は時系列に沿って書かれているので、初期・中期・末期に分けて本紀・列伝のそれぞれの巻の概要を説明し、「列女伝」のように後漢王朝一代の女性を網羅したものは末尾にまとめた。
[8]
後漢初期(光武帝・明帝・章帝)の時代

まず後漢書の冒頭を飾るのは「光武皇帝紀第一」、すなわち光武帝劉秀の活躍である。十八史略にも採られた昆陽の戦いの描写は精彩を放っている。范曄は光武帝とそれを支えた雲台二十八将及び馬援[9]について列伝の前半でその素晴らしさを綴っている。文選に名文として採用された「光武紀賛」「二十八将伝論」は光武帝と雲台二十八将を称える文章である。
この後漢初期は三代に続いて名君が続き、平和な時代であった。この部分は後漢書の中でも特に有名で、現代日本でも読売新聞の連載小説だった宮城谷昌光の『草原の風』[10]になっていたり、ライトノベル化もされている。[11]朱熹は『東漢総論』において「但だ党錮の諸賢が死に趨りても避けざるは、光武・明・章の烈が為なるを知る」と論じ、後漢中期に衰えゆく王朝を支えた士大夫は後漢初期の名君たちの時代の遺産であると論じている。
後漢中期(外戚・宦官と名士の争い)の時代

しかし、後漢王朝は中頃から貴族政治の弊害が出て、後世の史家・司馬光から「孝和(和帝)以降に及びて貴戚(外戚)・権を擅(ほしいまま)にし、嬖倖(宦官)事を用(おこな)い、賞罰章(あきらか)なる無く、賄賂公行し、賢愚渾?し、是非顛倒す。乱れたりと謂うべし。」(『資治通鑑』)[12]と評される暗黒時代が訪れる。司馬光がいうように宦官・外戚が政治を牛耳って賄賂や私利私欲の追求に明け暮れた悪政の時代であった。本紀では巻4の「孝和孝殤帝紀」から巻6の「孝順孝沖孝質帝紀」がこの部分に当たり、列伝では巻45「袁安伝」以降がここに当たる。

范曄はこの時代の記述では外戚の暴政に抵抗した袁安、宦官政治を弾劾して疎んぜられた楊震ら貴族(名士)の正義漢を多く取り上げている。范曄はこの部分では後漢名士を褒め称え、名士の儒教に基づく激しい政治批判や反政府運動(党錮の禁への命がけの反対運動)を著しく重視した記載をしている。[13]後漢書の全訳を行った吉川忠夫も「仁義を重んじ、守節をよしとする直線的な行為、烈しい行為への傾倒」への激しい称賛が見られるとしている。[14]また、党錮の禁に抵触した人物を「党錮伝」でまとめている。名士の政治批判は理想論に過ぎないことも多く、実効性を欠くものも多かった。例えば名士の一人宋梟は涼州の民衆反乱の平定を命じられた時に「民衆反乱が起こるのは道徳の乱れからだ。国民全員に『孝経』を読ませて親孝行を奨励すべき」と述べたほどであった。[15]これは後世の人からも「なまぬるすぎる」「迂遠ではないか」と批判された部分[16]だが、范曄はそのまま掲載している。歴代諸家の評では、この部分は全く評価しない人と絶賛する人に分かれる。例えば江戸時代の儒学者・中井履軒は著書『後漢書雕題』において「後漢には本当の儒者はいなかった。政治に寄与することもなく、文章をもてあそんだだけだ。少しは役に立つこともしたかもしれないが、大したことはできなかった。」と酷評している。[17]ところが同じ江戸時代の儒学者でも吉田松陰は感激して彼らに詩を捧げており、[18]現代中国の毛沢東は「まあ良く書けており、読む価値がある」と評して特に黄瓊伝・李固伝を褒めている。[19]
後漢末期の混乱の時代

後漢中期の外戚・宦官の弊害は是正されないまま後漢はいよいよ末期症状を呈するに至る。

本紀では巻7「孝桓帝紀」から巻9「孝献帝紀」、列伝では巻68「郭符許列伝」以降が末期の人物を描く部分である。いわゆる「東夷伝」の「桓霊の間」と言われる乱世である。倭にも「倭国大乱」と言われる混乱が起きていたが、この頃は中国本土でも黄巾の乱のような民衆反乱が頻発している。後に蜀の劉備諸葛亮がこの時代を回想すると、嘆息し痛惜しないことはなかったという時代であった。(出師表による)三国志演義は陳寿『三国志』の他、范曄『後漢書』の該当部分が元にされているとされる。

范曄『後漢書』は民衆反乱により後漢王朝が衰退し、董卓呂布のような群雄が争った後、献帝を奉じた上で、帝位簒奪を図る曹操が献帝を迫害する描写で終わる。范曄は人間の力を信じ、「これは運命だから仕方がない」というような「あきらめ論」を嫌ったと思われる。[13]だから、曹操に対する後漢高官の抵抗が描かれるが、結局それは実らず、後漢は曹操の子・曹丕により簒奪されて終わる。この部分では、孔融のように事あるごとに曹操を批判する人物が描かれる。曹操は孔融を憎み、罪に陥れて孔融の幼い子供二人共々処刑するという挙に出た。范曄は孔融を称賛し、「曹操が後漢を乗っ取れなかったのは孔融のような忠臣がいたからだ」としている。[20]

後漢最後の皇帝・献帝の伝記「孝献帝紀」は范曄の絶望を表す以下のような言葉で終わる。

「天の漢の徳に厭きることや久し。」(天は漢王朝を見放してしまった)[13]

後漢書本紀の最後は皇后紀下である。この巻は「孝献帝紀」より更にひときわ悲痛を極める。董卓の部下李儒に毒殺された十八歳の少年皇帝・少帝弁の伝記もここに入っている。毒殺される前の最後の酒宴で少帝弁と妻の唐姫が悲しんで詠んだ歌は、藤田至善が「後漢王朝の挽歌」と評した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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