後楽園球場
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その後、イーグルスの経営状態が後楽園本社の収支に影響を与えることや、スダヂアム経営陣と押川、河野らイーグルス側との不和もあって後楽園は1938年10月にイーグルスの経営権を大日本麦酒社長だった高橋龍太郎に譲渡し、球団事務所も神田・今川橋に移転した[1]

後楽園球場の開場後、洲崎はほどなく閉鎖され、上井草も使われなくなり、後楽園は完全に東京でのプロ野球興行の拠点となった。

また、球場の両翼が78mしかなかったこともあって本塁打がよく出たため(1937年〈昭和12年〉は開場後に82試合が行われ、84本の本塁打が出た。これに対し後楽園以外の球場では113試合で24本だった)「本塁打の出やすい球場」としてもファンの人気を集めた。1949年(昭和24年)までの1リーグ時代に行われた4988試合のうち41%にあたる2033試合が後楽園で行われている。
第二次世界大戦後戦後最初の早慶戦で超満員の後楽園球場(1946年6月15日)

第二次世界大戦末期には、球場は旧日本軍に接収され、グラウンドではジャガイモトウモロコシが栽培され、2階席には高射砲が設置された。

終戦後には兵器集積場になったりもしたが、1945年(昭和20年)には早慶戦やプロ野球の東西対抗戦が開催されるなど[要出典]、野球はすぐに再開された。

1946年(昭和21年)6月には上記のような経緯も影響してか連合国軍総司令部(GHQ)から接収命令が下るが、「東京でのプロ野球興行の場を失ってはならない」と当時の日本野球連盟鈴木龍二鈴木惣太郎がGHQを訪れて接収解除の陳情を行い、接収は6日間で解除された。

1950年(昭和25年)にはナイター設備を設置。

1950年にセ・パの2リーグに分裂した当時、東京はおろか首都圏の近郊にプロ野球の試合の常時興行が可能な球場が後楽園しかなかったこともあって、後楽園での試合数は飛躍的に増え、1950年(昭和25年)はセ・リーグの553試合のうち171試合(全体の31%)、パ・リーグの420試合のうち117試合(全体の28%)が後楽園で行われた。
プロ野球のフランチャイズ制正式導入後1956年の広告

1952年(昭和27年)にプロ野球では正式にフランチャイズ制度が導入されたが、後楽園は巨人、国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)、東急フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ[注 2]大映スターズ(千葉ロッテマリーンズの前身球団のひとつ)の5球団が本拠地として構えるなど日本一の球場の名を縦にした。その後、東急が1953年(昭和28年)に駒澤球場、毎日と大映の合併でできた大毎1962年(昭和37年)に東京球場、国鉄が1964年(昭和39年)に明治神宮球場へ移転した。しかし、東映[注 3]は駒沢が東京オリンピックの関係で、1961年(昭和36年)に閉鎖されたため、神宮と後楽園を併用した後、1965年(昭和40年)に再び後楽園を本拠地とした[注 4]。このため、開催試合数は減ったものの、巨人戦の大きな観客動員数に支えられ、日本野球のメッカとしての不変の地位を得た。

この間、1958年(昭和33年)には両翼を78mから90mに拡張するなど施設の整備に努めた。ただし、実測はもっと狭く打者に有利な球場だった。そのため、両翼・センターの距離表示が消去されたという経緯もある。また外野に向かって下向きに傾斜しているが[2]、グラウンドの排水をしやすくするためにほとんどの屋外球場で傾斜はついている。

日本最多の本塁打数を誇る王貞治は節目となる本塁打の多くをこの球場で放った。特にハンク・アーロンが保持するMLB記録を超える756号(1977年(昭和52年))と世界初の800号達成(1978年(昭和53年))の時には達成直後や試合終了後にセレモニーが催された。

王が本球場で達成した節目の本塁打

1959年(昭和34年) - 公式戦第1号(国鉄戦)、長嶋茂雄とのONアベック本塁打第1号(阪神戦・天覧試合

1974年(昭和49年) - 最後のONアベック本塁打(106回目 中日戦・長嶋引退試合)

1976年(昭和51年) - ベーブ・ルースの持つMLB2位の記録に並ぶ714号と、それを超える715号(2本とも阪神戦)

1977年(昭和52年) - ハンク・アーロンの持つMLB記録(当時)に並ぶ755号(大洋戦)と、それを超える756号(ヤクルト戦)

1978年(昭和53年) - 世界初の800号(大洋戦)

1980年(昭和55年) - 世界初の850号(広島戦)、現役最後そして通算本塁打の868号本塁打(ヤクルト戦)

施設整備も進み、1966年(昭和41年)には内野に天然芝を敷設し、1970年(昭和45年)にはスコアボードを電光掲示化。1976年(昭和51年)には人工芝を敷設した(後ろの二つは日本の野球場としては初)。しかし、巨人戦の動員力の大きさとは対照的に、東映→日拓ホーム→日本ハムの観客動員数は振るわなかった。オーロラビジョンが完成した1981年の日本シリーズは巨人と日本ハムの顔合わせとなり、史上初めて日本シリーズが同一球場で開催された[3]

1978年(昭和53年)5月、巨人戦の場内アナウンス(ウグイス嬢)を長年担当し[4]、病気療養していた務台鶴が死去[3]

1980年(昭和55年)、巨人軍そして日本プロ野球を支えたONこと王貞治と長嶋茂雄がそれぞれ現役引退と監督辞任したことによりON時代が終焉を迎えた。二人の功績を讃え、1981年(昭和56年)から1987年(昭和62年)の閉鎖まで1番ゲートは「王ゲート」、3番ゲートは「長嶋ゲート」と称された。また閉場の際に1塁ベースは王に、3塁ベースは長嶋に寄贈されている。なお、ゲートの名称は閉場とともに一旦消えるが、後継の東京ドームの開場10周年記念として1998年(平成10年)より1・3番ゲートにそれぞれ復活した。
球場の閉鎖、東京ドームへ

施設の老朽化により、1987年シーズンをもって閉鎖された。隣接する競輪場跡(競輪場が閉鎖された後はプールとして使用されていた)に東京ドームが建設され、球場としての役割を東京ドームに引き継ぐことになる。

最後のパ・リーグ公式戦は1987年(昭和62年)10月13日の日本ハム-近鉄戦で、近鉄先発の吉井理人がプロ初完投勝利を挙げている。最後のナイター開催試合は10月17日の巨人-ヤクルト戦で、巨人のサヨナラ勝ち。最後のセ・リーグ公式戦は10月18日の巨人-広島戦で、巨人の吉村禎章が4ボール2ストライク(4ボール目の見落とし)から本塁打を打っている。最後のNPB主催試合は10月30日日本シリーズの巨人-西武第5戦で、最後の投手は西武の工藤公康、最後の打者は篠塚利夫だった(結果は三振だった)。

「さようなら後楽園球場」をサブタイトルとした閉場記念イベントが11月3日から8日にかけて行われた他、11月6日の一般紙(東京版)の夕刊には、保坂誠取締役社長(当時)からの閉場に伴う来場者への感謝の挨拶が全面広告として掲載されていた。閉場記念イベントとなった11月3日の「ファイナルドリームフェスティバル」では、全球団の当時の現役選手が来場して、観客に感謝の挨拶をして、別れを告げた。この模様は同日深夜の11PMで録画放送されていた。最後の開催試合は11月7日の「巨人軍OB-オールOB戦」で、巨人軍のOBと巨人軍以外の球団のOBが対戦した夢の対決で、試合は乱打戦の末、巨人軍OBの勝利。同日にはたけし軍団と巨人・オールOB連合との試合も行われ、徳光和夫が会場実況して日本テレビで生中継された。終了後には全球団のOBがスタンドを一周して別れを告げた他、長嶋茂雄がユニフォーム姿で現役引退時と同様にマウンド付近で挨拶を行った。最後のイベントは11月8日の「87'読売巨人軍ファン感謝デー」で、王貞治監督・正力亨オーナーをはじめ、当時の現役選手・スタッフや、浅香唯酒井法子立花理佐仁藤優子福永恵規松本伊代松本典子山瀬まみもゲストで来場し、現役選手による紅白試合や野球に関するクイズ・女性アイドルとのアトラクションなどを行い、有終の美を飾って、ファンに別れを告げた。


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