後桜町天皇
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後桜町上皇は廷臣の長老で前関白近衛内前と相談し、伏見宮家より養子を迎えようとした[注釈 5]が、結局現関白九条尚実の推す典仁親王六男、9歳の祐宮(師仁、兼仁、光格天皇)に決まった。

皇統の傍流への移行以後も、後桜町上皇は幼主をよく輔導したといわれる。上皇はたびたび内裏に「御幸」し、光格天皇と面会している。ことに寛政元年(1789年)の尊号一件に際し、「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭した[9]ことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。

天明2年(1782年)、天明の京都大火に際しては青蓮院に移り、ここを粟田御所と号した[注釈 6]。生母青綺門院の仮御所となった知恩院との間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。

天明7年(1787年)6月、御所千度参りに集まった民衆に対し、後桜町上皇から3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた[10]

晩年は母方の実家として自分を支えた二条家の当主である左大臣二条治孝を関白に就けることを望んだ。しかし、治孝は関白としては「非器」とみなされて、朝廷・幕府両方から現任の鷹司政煕の慰留が行われ、最終的に後桜町上皇の崩御によって阻止されることになった[11]

文化10年(1813年)、74歳で崩御。後桜町院の追号が贈られた。ちなみに、その後に崩御した光格天皇以降は「院」でなく「天皇」の号を贈られたため、最後の女帝であるとともに崩御後に「院」と称された最後の天皇でもある。
文化人(歌人)

古今伝授に名を連ねる歌道の名人であった。文筆にもすぐれ、宸記・宸翰・和歌御詠草など美麗な遺墨が伝世している。また、『禁中年中の事』という著作を残した。和歌の他にも漢学を好まれ、譲位後、院伺候衆であった唐橋在熙高辻福長に命じて、『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の進講をさせている。
系譜

後桜町天皇の系譜

                 

 16.
第112代 霊元天皇(=26)
 
     

 8. 第113代 東山天皇 
 
        

 17. 松木宗子
 
     

 4. 第114代 中御門天皇 
 
           

 18. 櫛笥隆賀
 
     

 9. 櫛笥賀子 
 
        





 2. 第115代 桜町天皇 
 
              

 20. 近衛基熙
 
     

 10. 近衛家熙 
 
        

 21. 常子内親王
 
     

 5. 近衛尚子 
 
           

 22. 町尻兼量
 
     

 11. 町尻量子 
 
        





 1. 第117代 後桜町天皇 
 
                 

 24. 九条兼晴
 
     

 12. 二条綱平 
 
        





 6. 二条吉忠 
 
           

 26. 第112代 霊元天皇(=16)
 
     

 13. 栄子内親王 
 
        

 27. 鷹司房子
 
     

 3. 二条舎子 
 
              

 28. 前田光高
 
     

 14. 前田綱紀 
 
        

 29. 清泰院
 
     

 7. 前田利子 
 
           





 15. 保寿院 
 
        


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