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公用語漢語(中国語)
首都開封
皇帝
936年 - 942年高祖 石敬?
942年 - 946年少帝[1] 石重貴
変遷
建国し後唐を滅ぼす936年
遼によって滅亡946年
後晋(こうしん 936年[2] - 946年[3])は、中国の王朝で、五代の一つである[4]。国号は単に晋だが、春秋の晋などと区別するため後晋と呼び習わす[5]。都は開封[6]。前身の後唐と同様、突厥(テュルク)系沙陀族に近い部族の王朝である[7]。 933年11月に五代の後唐の明宗が病死すると閔帝が即位したが、934年4月に明宗の養子李従珂が閔帝を弑して帝位(末帝)に就いた[8]。 この頃、明宗の女婿でその信頼も厚く末帝と不和であった石敬?は、河東節度使として契丹に対する防衛拠点晋陽に派遣されて強大な軍事力を保持していたため[9]、閔帝や末帝に警戒されていた[10]。 末帝が即位すると契丹の南侵が激化したため後唐は晋陽方面の兵力増強に迫られたが、警戒する石敬?の軍備を増強するわけにもいかなかったため、彼を天平軍節度使(?州・曹州・濮州)へ転出させようとした。
歴史