後志国
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}令制国一覧 > 北海道 (令制) > 後志国後志国の範囲(1869/08/15)

後志国(しりべしのくに)は、大宝律令国郡里制を踏襲し戊辰戦争箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分のの一つである。別称は後州。五畿八道のうち北海道に含まれた。国名の由来は、阿倍比羅夫が郡領を置いた後方羊蹄(しりべし)の語音にちなみ、後志国を流れる尻別川のアイヌ語「シリ・ペッ」(山の・川)を採り、音訳して後志としたもの。命名者は松浦武四郎道南から道央にかけての地域に位置し、現在の後志総合振興局管内のうち虻田郡小樽市銭函4?5丁目相当区域を除いた大部分と、檜山振興局管内のせたな町以北および奥尻島にあたる。
領域

1869年明治2年)の制定時の領域は、現在の北海道後志総合振興局檜山振興局管内から下記を除いた区域に相当する。

小樽市の一部(新川以東)

虻田郡喜茂別町京極町倶知安町ニセコ町真狩村留寿都村

爾志郡乙部町

檜山郡江差町厚沢部町上ノ国町

沿革

ここでは後志国成立までについても記述する。

日本書紀』によると、蝦夷征討の行われた斉明天皇6年3月阿倍比羅夫が弊賂弁嶋(へろべのしま)で粛慎の砦を陥落させたとあり、この弊賂弁嶋を現在の奥尻島に比定する説と、粛慎の本拠地・樺太とする説[1]がある。また、比羅夫が政所・郡領を置いたのは余市郡域との説[* 1]もある(#外部リンクも参照。参考:奄美群島の歴史#古代)。飛鳥時代当時、後志国域においては擦文文化が盛んであったが、本州では平安時代にあたる10世紀中葉には、渡島半島の日本海側では擦文文化と本州土師器文化の混合的文化である青苗文化が成立した。中世の文献『諏訪大明神絵詞』に記された、本州と蝦夷との交易に携わる渡党と呼ばれる集団は、瀬川拓郎の説によれば、この古代青苗文化の負荷者の後裔であった[2]。渡党の居住地は道南で、活動範囲は渡島半島周辺地域であったとされる。また、同じく『諏訪大明神絵詞』に記された唐子という集団について金田一京助は北海道の日本海側の蝦夷に比定した[3]。鎌倉時代には、かれらは蝦夷管領の「東夷成敗」、すなわち蝦夷を統括する政務の対象であった[4]

室町時代に入り、享徳3年に松前藩武田信広公が久遠郡域に上陸。それから間もない康正3年、長禄元年(応仁の乱のちょうど10年前にあたる)にコシャマインの戦いがあり余市以西の後志国域でも和人蝦夷(唐子えぞアイヌ[* 2])の争いが繰り広げられた。海保嶺夫は、この戦いは蝦夷の一類である渡党とその他の蝦夷(唐子および日ノ本)との争いであったと解釈した。

江戸時代には、松前藩によって開かれた場所と呼ばれる知行地において松前藩家臣と蝦夷の人々との交易が盛んに行われ、この当時旧下ヨイチ運上家をはじめとする運上屋が各地に建てられていた。藩の出先機関の機能も兼ね備えた運上屋では撫育政策としてオムシャもあり、このとき掟書の伝達のほか乙名小使土産取など役蝦夷の任命や扶持米の支給(介抱)なども行われ、アイヌの人々は百姓身分に位置付けられた。制度的な詳細は商場(場所)知行制および場所請負制を、漁場の状況については北海道におけるニシン漁史を参照されたい。場所と後に設置された郡の対応は下記のとおりである。

クドウ場所・・・後の久遠郡

オオタ場所・・・後の久遠郡

ヲコシリ場所・・・後の奥尻郡

フトロ場所・・・後の太櫓郡

セタナイ場所・・・後の瀬棚郡

シマコマキ場所・・・後の島牧郡

スツツ場所・・・後の寿都郡

ヲタスツ場所・・・後の歌棄郡

イソヤ場所・・・後の磯谷郡

イワナイ場所・・・後の岩内郡


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