後志国
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江戸時代後期文化4年には、国防上の理由から後志国域は公議御料幕府直轄領)とされ箱館奉行の治世となった。同年、西蝦夷地(西側の蝦夷居住地である北海道日本海岸・オホーツク海岸・樺太)のアイヌの宗門人別改帳戸籍)も作成されるようになり(江戸時代の日本の人口統計も参照)、幕吏間宮林蔵享和3年(1803年)沿岸部の測量を行い大日本沿海輿地全図も作成された。文政4年には松前藩の元に戻され、弘化3年に松浦武四郎がはじめて後志を訪れている。しかし、安政2年再び公議御料となり、久遠から出張陣屋の築城された寿都郡までが津軽藩、歌棄郡以北は庄内藩が警固を担当した。安政3?5年にも向山源太夫や松浦武四郎らが調査のため訪れ、安政6年の6藩分領以降も大半が津軽藩(瀬棚郡以南)と庄内藩(歌棄郡以北)の警固地(公議御料)のままであったが、島牧・寿都の2郡(場所)は津軽藩領となっていた。同年、神威岬の女人禁制が解かれ、幕末までに後志国域のほぼ全域が和人地となっていた。慶応4年4月12日箱館裁判所(4月24日箱館府と改称)の管轄となった。

明治2年(1869年

同年から、9郡が道外の旗本寺院などによって分領支配される。8郡は開拓使直轄領。

旧暦8月15日9月20日)に後志国17郡が制定され、101村が含まれた。

10月、後志国で場所請負制廃止。漁場持ちの設定されず。開拓使銭函仮役所を開庁。


明治3年(1870年)4月、開拓使銭函仮役所を廃止し小樽仮役所開庁。

明治4年(1871年

5月、開拓使庁札幌移転に伴い、小樽仮役所廃止。

旧暦7月14日8月29日)、廃藩置県

旧暦8月20日10月4日)、北海道の分領支配の廃止。全域が開拓使の管轄となる。


明治5年(1872年

胆振国虻田郡黒松内村を移管され寿都郡に編入。

壬申戸籍が編製される。

旧暦4月9日5月15日)、全国一律に戸長・副戸長を設置。

旧暦10月10日11月10日)、大区小区制施行。

旧暦12月2日1872年12月31日)、天保暦からグレゴリオ暦に改暦。


明治12年(1879年7月23日郡区町村編制法(明治11年7月22日太政官布告第17号)施行。

明治13年(1880年11月28日官営幌内鉄道手宮-札幌間開業。

明治15年(1882年)2月8日、廃使置県にともない久遠・奥尻・太櫓・瀬棚・寿都・島牧・歌棄・磯谷の8郡は函館県の、岩内・古宇・美国・積丹・古平・余市・忍路・高島・小樽の9郡は札幌県の所管となる。

明治29年(1896年)5月、後志国で徴兵制度が施行された。

国内の施設
寺院

寺院は、室町時代文明元年6月5日に僧随芳が奥尻郡に松前山法源寺の前身である草庵を建立、これは延徳2年大館(渡島国津軽郡)に移転。江戸時代になると、元和3年5月に松前山法源寺の芳龍が奥尻郡(現在の青苗地区)に空谷山大仙寺を建立したが、これも寛文7年に松前城下蔵町に移転している。また江戸時代にはこのほか島牧郡の千走寺、磯屋郡の願翁寺、岩内郡の帰厚院、小樽郡の龍徳寺など多数が建立されている。
神社

後志国への和人の進出は古く、太田山神社は室町時代の嘉吉年間(1441?1443年)に創立されたと伝えられ、道南五大霊場のひとつとして信仰を集めている。また、古宇郡の厳島神社は安土桃山時代の、寿都神社と忍路神社は江戸時代前期の創建。下記の神社以外にも、江戸時代以前に創建されたものは多い。和人の北海道進出の多くは漁業関係者であり、そのため沿岸部に個人的に祭祀した例が多い。特にニシン漁が栄えた地区に大規模の神社が多く、祭礼も盛大であった。積丹町(美国・古平)・岩内町余市町等がその例である。明治になり国策として、伊勢神道系に統一されていったと想定される。

久遠郡 太田山神社(久遠郡せたな町

奥尻郡 少彦名神社(奥尻郡奥尻町

寿都郡 寿都神社(寿都郡寿都町

岩内郡 岩内神社(岩内郡岩内町

古宇郡 厳島神社(古宇郡神恵内村


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