後宮
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6月22日大喪儀を経て、翌1952年(昭和27年)1月1日付で、皇太后宮職が廃止された[18]大宮御所に務めていた女官長清水谷英子らも退職した[19]。女官が侍従職のみとなったことで、源氏名や長々とした御所言葉も完全に廃止された[20]

一連の改革を経て、今日では宮中の女官に側室としての機能が無くなり[21]、宮中における後宮は終焉した。
天皇の后
律令の規定によるもの

皇后(こうごう/おおきさき)

(ひ/きさき) - 2名以内、四品以上の内親王

夫人(ぶにん/おおとじ) - 3名以内、三位以上(公卿)の娘

(ひん/みめ) - 4名以内、五位以上(貴族または豪族)の娘

平安時代以後に生じた呼称

中宮(ちゅうぐう)
本来は皇后の別称。後に複数の皇后が立てられた際は、2番目以後の者を指すことが多かった。また、上皇退位後に迎えた皇后に贈られることもあった。

女御(にょうご)
本来は嬪の別称であったが、後に皇后・中宮に次ぐ地位とされ、これらの地位に昇る予定の女性でもまず女御になるのを慣例とした。

更衣(こうい)
本来は「便殿」詰めの女官であったが、後に天皇の寝室にも奉仕して女御に次ぐ地位の配偶者に改められた。女官時代の慣例で定員は12名とされた。

御息所(みやすんどころ/みやすどころ)
本来は「御息所」詰めの女官であったが、後に天皇の寝室にも奉仕して更衣に次ぐ地位の配偶者に改められた。後に転じて天皇の寵愛を受けた女官や、皇太子親王の配偶者のことも指すようになった。

御匣殿(みくしげどの)
本来は「御匣殿」詰めの女官であったが、後に天皇の寝室にも奉仕して更衣に次ぐ地位の配偶者に改められた。その最上位のものは「別当」と称し、後に女御に昇る予定の女性がまず御匣殿別当に就くこともあった。

尚侍(ないしのかみ) 詳細は「内侍司」を参照

典侍(ないしのすけ) 詳細は「内侍司」を参照

大奥の概要詳細は「大奥」を参照
中国の後宮
概要

中国で後宮とは、宮廷内で天子が家庭生活を営む場所であり、また皇后以下、妃嬪、未成年皇族(幼い皇子と未婚皇女)が暮らす場所でもあった。そのため后妃のこと自体を後宮ということがある。

後宮には多くの女官や宦官たちが暮らし、後宮内で近侍・文献管理・歌舞・衣服製造・保育・掃除など職務に従事した。しかしどのような役職であれ、皇帝に会える機会は珍しい。杜牧の漢詩『宮人冢』「少年入内教歌舞,不識君王到老時(少女の時代から後宮に入って歌舞を習い、老いても君王には一度も会ったことがない)」とある。
人数

一般的には「後宮三千人」(『長恨歌』「後宮佳麗三千人」より)と言われている。皇帝の好みや時代によって後宮の人数は異なる。例えば、晋国武帝は呉国を滅ぼした後、孫氏の宮女を数千人引きつれ加えたため、後宮の女は1万人に達した[22]
供給源

後宮の女性(后妃と女官を含む)の源は主に4種類に分けられる。この4種類は礼聘・採選・献上・没官である。前の両者それぞれは良家の娘または庶民の娘が選抜を経て入宮することを指している。3つ目は皇族や官員など推薦を経て入宮した(献上されたとも言える)。4つ目は戦争の捕虜や犯罪者の家族として連坐して籍没され入宮した。
晩年

后妃の晩年は、時代によっては異なる。漢代に、寵愛されているが子供のいない宮人は先帝の陵園中に置かれて供物・歌舞・掃除などの日常的な祭事が行われる(『後漢書』)。皇子を生んだ側妃は皇子に従って封地に赴き、王太后となった(例:漢の文帝の生母薄姫)。仏教が盛んになってから、基本的に出家するか(例:則天武后北魏宣武帝の皇后高英)、あるいは別宮で晩年生活を送る。明の前期、子供のいない妃嬪が殉死した。明の中後期および清に、先帝の妃嬪は寿康宮など皇太后・太妃の居住地に移住った。新帝は孝養を尽くした。

宮女は、基本的に終身制となっている。宮中に入ってから生涯後宮を出ることがなかった。大赦があった時点で寵愛されない宮女を解放した例もあるが、慣例ではない。その境遇は多くの詩人に同情され、関連する漢詩が多い(白居易『上陽白髪人』と元?『行宮』など)。清朝だけで25歳を超える宮女が出宮する通例がある。
主宰者

後宮一の女主であり主宰者でもあるのが、皇帝の正室である皇后である。皇貴妃、皇帝が指定した側妃、さらには乳母が後宮の実権を握っている場合もある(例:乾隆帝の妃の令皇貴妃天啓帝の乳母の客氏)。皇帝が三公九卿以下の官僚組織を擁するのと同様、後宮制度において皇后も三夫人(三妃)、九嬪、二十七世婦、八十一御妻の3倍ずつ増加するヒエラルキーを擁していた。
位号

前漢の制度では、昭儀?、、?娥、容華、美人、八子、充衣、七子、良人、長使、少使、五官、順常、無涓、共和、娯霊、保林、良使、夜者を指す。後漢光武帝は節約を理由に後宮の簡素化を施行し、妃嬪の位号も4級(貴人、美人、宮人、采女)にした。

代の制度では、三夫人(貴嬪、夫人、貴人)、九嬪(淑妃淑媛淑儀、修華、修容、修儀、?、、容華、充華)、美人、才人、中才人。

代の制度では、後宮の職官は、内官・宮官・内侍省の3部門で構成されていた。内官とは妃妾のことで、四夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。正一品)、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛。正二品)、二十七世婦(?、、美人、才人。正三品から正五品)、八十一御妻(宝林、御女、采女。正六品から正八品)を指す。正六品以下が宮官であり、宮中内の職務に携わる女官たちのことである。


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