後宇多天皇
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持明院統の花園天皇を挟んで、第二皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が文保2年(1318年)に即位すると再び院政を開始。元亨元年(1321年)、院政を停止し隠居。以後、後醍醐の親政が始まる。

後醍醐に政務を移譲した理由は、『増鏡』「秋のみ山」によれば、仏道の修行に専心したいからだったという[6][注釈 2]。日本史研究者の河内祥輔は、仏道に専念したいというのは、本人が真意を隠すために公言したことに過ぎず、実際は、後醍醐に実績と権威を積ませることで、正嫡の邦良派と准直系の後醍醐派の二頭体制で天皇位・皇太子位を独占させて、持明院統の親王の立太子を防ぎ、両統迭立での完全勝利を背後から策謀したのではないか、という[9]。一方、中井裕子は、『増鏡』の仏道専念説がやはり正しいであろうとし、後二条の代にも政務を譲ろうとした形跡があること[11]、既に以前から後醍醐に所領管理を任せていたこともあること、などを挙げ、後継者育成が一段落したところで政務を離れて隠居したかったのではないか、という[6]

元亨4年(1324年)6月25日、大覚寺御所にて崩御。宝算58。同年9月に正中元年事件(いわゆる正中の変)が発生した。
人物・評価

後宇多上皇の人物評としては、政敵である持明院統の天皇で、学問皇帝として名高い花園上皇の『花園天皇宸記』元亨4年6月25日条[12]が著名である。花園による評伝では、後宇多は「天性聡敏、博覧経史、巧詩句、亦善隷書」と、聡明な帝王であり、学問・和歌・書道にも長けていたと評される[12]。花園によれば、後宇多は、後二条天皇の上に治天の君として立っていた乾元嘉元年間(1302年 - 1306年)の間は厳粛な善政を行っていたという[13]。しかし、寵妃の遊義門院の崩御後は仏教にのめりこみ、第二次院政期は賄賂政治になってしまった、と花園は後宇多の晩年の政治を批判する[13]。とはいえ、総評としては「晩節雖不修、末代之英主也、不可不愛惜矣」つまり「晩節を汚したとはいえ、末代の英主であることには違いない。その崩御が本当に名残惜しい」と、自身の政敵でありながら、後宇多を惜しみなく称えている[12]。この評伝からは、評価された側の後宇多の才覚だけではなく、評価する側の花園の、簡にして要を得た筆力と、冷静で客観的な性格も読み取ることができる[13]

日本史研究者の森茂暁は、「うたがいなく鎌倉時代の牽引役を果たした人物の一人で、歴代天皇・上皇のなかでもまれにみる辣腕の政治家」と評している[13]

第一次院政期には、裁許を迅速にするため、院への取次を務める伝奏(てんそう)を訴訟処理の中核として用いるなど、訴訟制度の効率化を進めた[14]。また、子の後醍醐天皇検非違使庁を土地裁判・納税徴収など京都の統治に活用したが、中井裕子によれば、これも後宇多の院政期に既にその嚆矢は見られるという[15]市沢哲によれば、こうした後宇多前後の諸帝の訴訟制度改革の取り組みと連動して、治天の君が果たす役割が大きくなったため、後醍醐の王権強化の改革もまた時代の流れに沿ったものであり、後宇多らの朝廷政治の延長と捉えられるという[15]。20世紀最末期からの研究の流れでは、後醍醐は建武政権で後宇多ら朝廷の改革と鎌倉幕府の改革を発展的に統合させ、後進の室町幕府も建武政権の政策を基盤としているという[16]
系譜

後宇多天皇の系譜

                 

 16.
第82代 後鳥羽天皇
 
     

 8. 第83代 土御門天皇 
 
        

 17. 源在子
 
     

 4. 第88代 後嵯峨天皇 
 
           

 18. 源通宗
 
     

 9. 源通子 
 
        





 2. 第90代 亀山天皇 
 
              

 20. 西園寺公経(=12)
 
     

 10. 西園寺実氏 
 
        

 21. 一条全子
 
     

 5. 西園寺?子 
 
           

 22. 四条隆衡
 
     

 11. 四条貞子 
 
        

 23. 坊門信清
 
     

 1. 第91代 後宇多天皇 
 
                 

 24. 藤原実宗


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