後堀河天皇
第86代天皇
在位期間
1221年7月29日 - 1232年11月17日
承久3年7月9日 - 貞永元年10月4日
即位礼1222年1月14日(承久3年12月1日)
大嘗祭1222年12月27日(貞応元年11月23日)
元号承久
貞応
元仁
嘉禄
安貞
寛喜
貞永
時代鎌倉時代
先代仲恭天皇
次代四条天皇
誕生1212年3月22日(建暦2年2月18日)
崩御1234年8月31日(天福2年8月6日)[1]
持明院
大喪儀1234年9月5日(天福2年8月11日)
陵所觀音寺陵
追号後堀河院
(後堀河天皇)
諱茂仁
元服1222年2月15日(承久4年1月3日)
父親守貞親王
母親持明院陳子
皇后三条有子
中宮近衛長子
九条?子
子女四条天皇ほか(后妃・皇子女節参照)
皇居平安宮
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後堀河天皇(ごほりかわてんのう、1212年3月22日〈建暦2年2月18日〉- 1234年8月31日〈天福2年8月6日〉)は、日本の第86代天皇(在位:1221年7月29日〈承久3年7月9日〉- 1232年11月17日〈貞永元年10月4日〉)。諱は茂仁(とよひと)。
高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は、持明院基家の娘、北白河院・陳子。 承久3年(1221年)の承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させた。次代皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外し、後鳥羽上皇の兄・守貞親王(行助入道親王)の三男であり、出家していなかった茂仁王(後堀河天皇)を即位させた。また、茂仁の母である持明院棟子(北白河院)の存在も注目される。彼女の父・基家は源頼朝の妹婿である一条能保の叔父、母は平頼盛の娘(平治の乱の際に源頼朝の命を救った池禅尼の孫にあたる)であり、鎌倉幕府にとっても彼女が生んだ茂仁は皇位継承者として望ましい存在であったと考えられる[2]。ちなみに守貞親王の異母弟である惟明親王(聖円入道親王)の子である国尊王(交野宮)もまだ出家前であったが、乱の直前に父である惟明が亡くなったことから治天の君が得られないことを理由に候補者から外されたとみられている[3]。 茂仁王も十楽院
略歴
後堀河天皇はこのとき10歳であったので、父親の守貞親王に太上天皇の尊号を奉り上皇(後高倉院)として、院政を行わせた。この時代は、主に承久の乱の後処理が行われていた。貞応2年(1223年)5月、守貞親王薨去。
幼い天皇を巡って自分の娘を后妃に送り込みたい有力貴族の活動が活発化し、当初は三条公房の有子(安喜門院)が中宮に立てられるが、関白近衛家実が宣陽門院(後白河法皇の皇女で長講堂領の所有者)と結んで有子を退出させて自分の娘である長子(鷹司院)を新しい中宮に立てた。しかし、承久の乱で一旦は失脚していた九条道家が舅の西園寺公経や息子の九条頼経、公経の叔母である北白河院を味方につけて家実を失脚させて自らが関白に就任する(安貞二年の政変)と、長子を退出させて自分の娘である?子(藻璧門院)を新しい中宮に立てた[4]。
貞永元年10月4日(1232年11月17日)、院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位。3日後に太上天皇となる。しかしながら、将来的には治天の君として院政を行うことが確実になっていたとは言え、九条道家が天皇の外祖父の地位を得るために幕府にも一方的な通告を行った上で強引に譲位を行ったとする指摘もある[5]。また、元来病弱であり、院政開始後2年足らずの天福2年8月6日(1234年8月31日)に宝算23歳で崩御した。その崩御が中宮?子の死から間もない時期だったため、かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧正仁慶の怨霊の祟りや、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといわれる。 後堀河天皇の系譜
系譜
16. 第74代 鳥羽天皇
8. 第77代 後白河天皇
17. 藤原璋子
4. 第80代 高倉天皇
18. 平時信
9. 平滋子
19. 藤原祐子
2. 守貞親王(後高倉院)
20. 藤原信輔
10. 藤原信隆
21. 橘家光女
5. 藤原殖子
22. 藤原通基(=12)
11. 藤原休子