後光厳天皇
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^ 花園天皇正親町実子の子である直仁親王は、光厳上皇の猶子として崇光天皇の皇太子となったが、光厳上皇は直仁親王を自身の実の子であると告白していた[11]。実際に光厳上皇と正親町実子との間にできた皇子とみられる[12][13][14]。建武3年(1336年)出生か[15]
^ 安居院(あぐい)は、京都市上京区大宮通上立売北にあった寺院[18]。京都市上京区には芝大宮町・芝薬師町・芝之町などの町名が存在し、「芝」はかなり広範囲の地域を指すものであったと考えられる[19]
^ 践祚直前では『園太暦』や『小槻匡遠宿禰記』などで「三宮」と称されていること[20]、建武3年(1336年)出生とみられる直仁親王が現在では光厳上皇の皇子であると考えられていることを考慮して、本項では元服までの後光厳天皇を三宮(さんのみや)と称す。
^ 光厳は幼少より花園から学問を受けていたため、形としてはその皇子である直仁親王の立太子を行うことで花園への報恩を果たそうとしたという説や[12]、直仁親王の母が室町将軍家の親戚であることを利用したという説がある[21]
^西漢孝文皇帝」の故実も同時に引照されている[36]
^ 村田正志は広義門院の院宣で践祚したとしているが[39]今谷明は、院宣、すなわち「伝国詔宣」(譲国詔宣)は出されず、あくまで継体天皇の先例に基づいた践祚としている[40]
^ 後鳥羽天皇が「年料辛櫃」(もしくは「大蔵省辛櫃」)を神鏡の代用とした「寿永例」による[44]
^ なお、足利尊氏も笙を嗜んでおり、後光厳の師も尊氏と同じであった。このことは後光厳が笙を選択した理由の一つとみられる[67][68]
^ 清涼殿にて開催される漢詩の会(中殿作文)と和歌の会(中殿歌会)を合わせて中殿御会という。これは代始めの儀式の一つであり、この儀式を以って以降内裏で開かれる漢詩会・歌会は公宴となる。幼帝の多い中世においては稀であった[74]
^ 後光厳朝初[53]
^ 柳原忠光は院執権、広橋仲光は左少弁、万里小路嗣房は左大弁、中御門宣方は左中弁であり、後光厳上皇の院司であった[95]。彼らは後光厳上皇の信頼の厚い有能な側近であり、彼らの放氏は後光厳院政の手足を奪うに等しかったとされる[95][96]
^ 『後光厳院御百首』にも収められている。それによれば題は「述懐」[130]
^ ほかに、中納言典侍・三位局・梅町殿・北山殿・南御所などの別称がある。
^ 死因については、『兼宣公記』『妙法院在住親王伝』『仁和寺年代紀』などの史料に自害したという記述がみられる。
^ 文明8年(1476年)に安楽光院が焼失したのちは、主に般舟三昧院が追善仏事を行うようになる[142]

出典^ 樋口 2021, p. 250.
^ a b c d 久水 2020, p. 112.
^ a b 図書寮(3) 1947, p. 738.
^ a b c 図書寮 1947, p. 2.

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