律令時代
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中国では、皇帝は新法の制定者で最終的な権威者で律令を超越できる(名例律18条「非常の際には律令に従わず裁断できる」とある)。これに対して、日本では養老律令・名例律、考課令官人犯罪条に同規定があるが、実際は天皇も律令に拘束され、律令運用の中心は、太政官・議政官などの貴族層にあった[8]

神亀元年(724年)2月聖武天皇が即位2日後に生母藤原宮子に「大夫人」の称号を与えたが、太政官左大臣長屋王に律令違反だと抗議の奏上をされて、勅を撤回している。これは中国ではありえないことだった。

日本の律令制では、唐令の皇帝土地支配を改めて、土俗的で伝統的な氏族制の地方支配を認め、地方の国造からの朝廷・大王への宗教的な祭祀による捧げもののミツキによる貢納を、国家による地方支配の根幹としている。中国の租庸調とは性格を大きく変えている。日本では、地方行政機関の評制定と民衆を把握し戸籍を作り、班田収授法で農地を調べ徴税や労役を課することが重視された。[9]
先行の律令制

高句麗百済新羅にはそれぞれの律令制があり、初期の日本の部民制令制国令制)はこれらに倣っていたことが窺える。唐王朝は、律令は天下に君臨する中国皇帝が制定すべき帝国法であると、周辺諸国の律令編纂を認めなかったとする説が有力となり[10]、他の古代東アジアの国では施行されておらず、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである[11]。唐国側も律令の日本での受容を知らず、遣唐使の朝貢品の織物への「調布」との律令的な記載を訝り問いただした例がある(『旧唐書 日本国伝』)[12]

日本では律令体制や律令国家と呼ばれるが、当然中国にはこのような呼称は存在しない[13]。中国において「律令」という言葉はからまで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなったの国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在したも加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある[14]
基本制度

日本の律令制は、下記の制度が統治の根幹となっていた。大化の改新を起点に律令国家を目指し、制度整備が行われた。
一律的に耕作地を班給する土地制度
班田収授制(班田制)として施行された。国家が保有する田から、定められた面積の耕作権を全人民へ貸与した(班給[15]
租税制度
租庸調制として施行された。班給田からの収穫物は、国衙へ納める税(租)と自らの食料とへ当てた。また一人一人に割り当てられた庸調が中央の朝廷へ納められた。律令制以前の地方氏族制によるチカラ・ミツキ・タチカラの慣行の上に成立した[16][17]
兵役が課せられる軍事制度
軍団制として施行された。国司が選定した人民は兵役の義務を負った(一につきおよそ一人)。ただし、東国(関東)ばかりが防人の兵役義務を負っていたなど、一律的に兵役が課されていないという実態があった。
地方行政制度
中央の中級貴族官人の中から任命された国司(守、介、掾、目の共同責任)が令制国の行政のために派遣された(4年交代)。国司の重要な任務の一つは、その国内から徴税された中から、定められた中央の官人[18]寺社への給与を滞りなく各々へ納めることであり、任期終了時には厳しく考課された(違反があれば弁済が求められた)。その国内では、古代からの地方豪族を郡司として世襲任命した。古代村落に対する支配をそのまま生かし、その各の一人一人への班給・課税・徴兵・戸籍計帳の作成が綿密に担われた。これが中央の朝廷の財源である庸調を支えた。
官僚制、国制組織
国家組織としては2官8省制だった。国家権力を5位以上の畿内貴族層で掌握し、地方豪族を支配し伝統的な大和政権の構成を継承していた[19]。太政官令の権限は強く、太政官が発議し、議政官との合議の後に上奏し裁可された。天皇の権力へも制約を加えるものだった[20]
位階
位階官人へ与えられた位(身分)を指す。これは官人官職よりも重要視された[21][22]。貴族制的な要素が強く、5位以上の官人は、畿内の中央氏族や地方の伝統的な有力氏族が独占した[23]。加えて、5位以上の貴族の子弟へは21歳で自動的に継承する官職が与えられた(蔭位の制)。
律令法典
制度を実施するための律令法典が整備された(中国の律令から一部改訂して取り入れた)。社会規範を規定する刑法的な律と社会制度を規定する行政法的な令が中心的な位置を占め、律令の不足を補う改正法としての格および律令と格の施行細則としての性格を持つ式が一つの法体系、即ち律令法典を構成していた。
駅伝制
中央と地方の情報伝達を遅滞なく行うための交通制度(駅伝制)が定められた。
貨幣制度
皇朝十二銭が発行されたが、後述のとおり、日本においては定着しなかった。

周辺の東アジア諸国では、中国の服装や役職制度は取り入れたが固有法のままで、かつて654年に導入されたとされていた新羅でも律令は参照して、独自の国法を整備する形であった[24]
経緯・変遷
律令制の前身「部民制」を参照


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