律令制
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また白村江の戦い663年)の大敗後に、に対峙する危機意識を背景とし、の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国(新羅、渤海)に対する宗主の位置付け[注釈 2]を目指したとも考えられている。

特徴として公地公民制の徹底を行い、それまでの地方豪族の領地は収公された。ただし極めて高い朝廷の地位を持つ身分(三位以上)や大寺社へは、公務に準ずるとして特例制度を設けた[注釈 3][注釈 4]

また中央集権的な官僚制を全面的には採用せず、古代日本の伝統に基づく氏族制を認め併用した。これにより、それまでの古代からの地方豪族は、国司(中央官人が令制国へ派遣された)の下で、郡司に任命・世襲され働くこととなった。彼らは古代村落内の(大家族)を把握し、その戸に住む一人一人を調査・記録し(戸籍)、律令制の諸制度を実質的に支えることとされた。

またその後の日本の歴史で、観念上、朝廷が統治の頂点に立つことが確立した。また生産手段(土地など)・統治権・軍事権の正統性(および収公)の根拠となった[注釈 5]。官僚優越および軍事行動は朝廷の命に従うなどの観念も成立した。

しかし開始後約100年のうちに、より大きい収入を望む中央貴族の台頭に伴い、現実上の経済制度として煩瑣の割には彼らの収入は必ずしも大きくはないなどと判断され、奈良後期?平安初期に改められていった。古代からの地方豪族と伝統的村落の衰亡・解体も進み、当初の律令制を支えることは困難となった(に属する一人一人の把握も困難となった)。朝廷および中央貴族は制度を修正・改革し、より効率的に統治し自らの収入も確保できるよう、国家軍事力の廃止、地方のインフラへの公的投資の縮小(官道、国衙、国分寺など)を進め、国司の任は税収の中央貢進が主となった。

その後、中央貴族も淘汰が進み、他の氏族を圧倒した藤原北家朝廷で独占的地位を占め、貴族社会(王朝国家)の時代へ移行した。
発足

日本書紀』によれば推古11年12月5日(604年1月11日)に始めて冠位十二階の制定などの国制改革が日本で行われ、官に12等があると『隋書』倭国伝に記されていることからも、身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作るものであった[2]

646年から孝徳天皇中大兄皇子らが進めた政治改革、いわゆる大化の改新において、4つの施策方針が示された。
豪族国造)らの私有地を廃止し、人民の所有を廃止すること

中央(朝廷)による統一的な地方統治制度を創設すること

戸籍計帳班田収授法を制定すること

租税制度を再編成すること

すなわち地方統治制度については中央政府(朝廷)が、構成する諸国を官僚制により直接統治することとした(豪族国造の支配を廃止)。また、中央政府が統率する大規模軍(軍団)を作ることとした。また日本の君主号を天皇とし、諸国の上に君臨することを明確化した(「国」の王ではなく、また、日本は国ではない位置付け)。

ただし、大化の改新後に、これらの改革が皆急速に実施されたわけではないと考えられている。20世紀中後期頃までは、大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていたが、1967年12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上?国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、改新の詔の文章は『日本書紀』編纂に際し書き替えられたことが明白になり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明、必ずしも律令制史上の画期とは見なされなくなってきた。例えば、改新の第一の方針は公地公民制を確立したものとして評価されてきたが、これは王土王民の理念を宣言したのみに過ぎず、改新時に公地公民制という制度は構築されなかったとする見解も有力となりつつある。大化の改新は『日本書紀』に描かれるほどの画期的な改革ではなく、その後、改革への動きは停滞したとする見解が広範な支持を集めている[3][4]
終焉

当初の制度は終焉、衰退、もしくは修正されて存続した。

戸籍に基づき、一人一人の把握に基づく諸制度(班田収授制、庸調の中央朝廷への納税、軍団制など)は、維持が困難もしくは非効率と見なされるようになり、大きく改められた(8世紀後期以降)。

田畑(開墾地など)に対する耕作権の私有・世襲を、一般人へも一部認めるようになった(8世紀後期以降)。

領地私有制(および荘園制)は、本来の制度でも高位の身分および大寺社のみへ認められたが、室町時代中期以降は、大名等による隣接する土地の実力による不法な押領(土地を奪う行為)が大規模・全国的に進み常態化した。朝廷・将軍家は制止することができなくなった。

太政官制は、1885年明治18年)に廃止された。

基本理念

日本の律令制は、中国で理想とされてきた「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を取り入れた(王土王民思想、王土王臣とも言う)。

中国の律令(古代中国の西晋から唐朝の800年間をかけて整備された)と統治技術とを、日本[注釈 6]へ、白村江の戦の大敗後にそれまでの国家体制を改める形で移植した(一部は修正した)。

唐朝の律令を取り入れたが、伝統および実情に合わせ国家を動かすために調整・修正した(空文となったものも多い)[5]。このため、律令制と氏族制との2元国家体制とした[6]。例えば、郡司は中央官僚ではなく古来の地方豪族が任用され、伝統的村落に対する地方行政が行われた(国郡里制)。また中国での皇帝に権力を集中する科挙制度や、側近政治のための宦官制も取り入れなかった[7]

中国では、皇帝は新法の制定者で最終的な権威者で律令を超越できる(名例律18条「非常の際には律令に従わず裁断できる」とある)。これに対して、日本では養老律令・名例律、考課令官人犯罪条に同規定があるが、実際は天皇も律令に拘束され、律令運用の中心は、太政官・議政官などの貴族層にあった[8]

神亀元年(724年)2月聖武天皇が即位2日後に生母藤原宮子に「大夫人」の称号を与えたが、太政官左大臣長屋王に律令違反だと抗議の奏上をされて、勅を撤回している。これは中国ではありえないことだった。

日本の律令制では、唐令の皇帝土地支配を改めて、土俗的で伝統的な氏族制の地方支配を認め、地方の国造からの朝廷・大王への宗教的な祭祀による捧げもののミツキによる貢納を、国家による地方支配の根幹としている。中国の租庸調とは性格を大きく変えている。日本では、地方行政機関の評制定と民衆を把握し戸籍を作り、班田収授法で農地を調べ徴税や労役を課することが重視された。[9]
先行の律令制

高句麗百済新羅にはそれぞれの律令制があり、初期の日本の部民制令制国令制)はこれらに倣っていたことが窺える。唐王朝は、律令は天下に君臨する中国皇帝が制定すべき帝国法であると、周辺諸国の律令編纂を認めなかったとする説が有力となり[10]、他の古代東アジアの国では施行されておらず、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである[11]。唐国側も律令の日本での受容を知らず、遣唐使の朝貢品の織物への「調布」との律令的な記載を訝り問いただした例がある(『旧唐書 日本国伝』)[12]

日本では律令体制や律令国家と呼ばれるが、当然中国にはこのような呼称は存在しない[13]。中国において「律令」という言葉はからまで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなったの国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在したも加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある[14]
基本制度

日本の律令制は、下記の制度が統治の根幹となっていた。大化の改新を起点に律令国家を目指し、制度整備が行われた。
一律的に耕作地を班給する土地制度
班田収授制(班田制)として施行された。国家が保有する田から、定められた面積の耕作権を全人民へ貸与した(班給[15]
租税制度
租庸調制として施行された。


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