律令制
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経緯・変遷
律令制の前身「部民制」を参照
大化の改新

645年難波宮で行われた大化の改新時、日本という国号と共に最初の元号である大化が正式に定められた。
近江令・庚午年籍

律令制導入の動きが本格化したのは、660年代に入ってからである。660年百済滅亡と、663年の百済復興戦争(白村江の戦い)での敗北により、新羅との対立関係が決定的に悪化し、朝廷は深刻な国際的危機に直面した。そこで朝廷は、まず国防力の増強を図ることとした。危機意識を共有した支配階級は団結融和へと向かい、当時の天智天皇豪族を再編成するとともしに、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。その結果、大王(天皇)へ権力が強まった。この時期に編纂したとされた近江令は、国制改革を進めていく個別法令群の総称で体系的な編纂と施行はされていないと考えられている[25]。天智天皇による法令は官位26階制や各氏とその民部家部をさだめる軽易なものである。重要なのは、天智9年(670年)に、日本史上最初の戸籍とされる庚午年籍が作成された。部姓や氏がつけられその後の律令制の基礎ともなった[26]
飛鳥浄御原令詳細は「飛鳥浄御原令」を参照

天智天皇の死後、壬申の乱により政権を奪取した天武天皇は、軍事を政治の最優先項目に置き、専制的な政治を推進していった。主要な政治ポストには従来の豪族ではなく諸皇子をあてて、その下で働く官僚たちの登用・考課・選叙など官人統制に関する法令を整備していった。こうした流れは、体系的な律令法典の制定へと帰着することになり、681年に天武天皇は律令制定を命ずるを発出した。天武天皇の生前に律令は完成しなかったが、689年持統天皇の時代に令が完成・施行された。これが飛鳥浄御原令である。この令は、律令制の本格施行ではなく先駆的に施行したものと考えられている。令原文が現存していないので、詳細は判明していないが、戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、班田収授に関する規定など、律令制の骨格がこの令により形成されたと考えられている。また、現在判明している範囲では浄御原令の官制などの制度は、南北朝時代の中国の制度や百済・新羅などの朝鮮半島の制度が織り交ぜられたものと考えられている。

律は制定されなかった。その理由としては、高度な体系性を必要とし、また隋律あるいは唐律はまだ日本へ伝来せず準備不足だったと考えられている[注釈 7]

日本で律が編纂されるようになるには、唐との関係改善によって唐からの律法典が招来され、それを理解して日本の国情に合わせて改編できる人材の確保(唐留学生の帰国や唐人の来日)を待たねばならなかったと推定されている[27]
大宝律令

その後の701年に、大宝律令が制定・施行された。大宝律令は、日本史上最初の本格的律令法典であり、これにより日本の律令制が確立することとなった。大宝律令の施行は、当時としても非常に画期的かつ歴史的な一大事業と受け止められている。大宝律令の制定過程で、周礼に準じた正方で中心に宮域の形式で造られた藤原京が、北宮域で長方形の長安を見聞した遣唐使により相違すると指摘され、平城京が、9年の歳月で建設され遷都された[28][29]。律令編纂に中心的な役割を果たした藤原不比等は、その後、大納言右大臣へ昇進し平城京遷都にも大きな役割をして、政府の中枢において最大の権力者となり、藤原氏繁栄の基盤を作った。律令制定に伴って、正史日本書紀の編纂、風土記の撰上、度量衡の制定、銭貨の鋳造などが行われた。これらは律令に直接の根拠を持つものではないが、いずれも律令制に不可欠な構成要素であった。

大宝律令は、の永徽律令(えいき-、651年制定)をもとに作られた。しかし、唐律令には、日本の社会情勢と適合しない箇所もあったため、多くの箇所で日本の国情に合わせた改変がなされている。大宝律令制定後も、日本の国情に適合させるよう律令の撰修が続けられ、聖武天皇の時代の文化には北魏の影響が強いとされているが、その成果が養老律令としてまとめられ、757年に施行された。
8世紀初頭

班田制などが功を奏し、農業生産量増大に伴い人口も増大した。反面、班給すべき口分田の不足が起き始めた。
桓武天皇と律令制

8世紀末頃になると、いくつかの制度は実効性が薄れ、運用されなくなったものも現れ、問題視されるようになった。またそれらをそのまま放置することは、財政的かつ人的な負担および浪費とみなされるようになった。地方では、郡司を務めていた古来の地方豪族の没落、伝統的村落の解体が進み、を単位とした人民一人一人の把握は困難となっていた。

そのため桓武天皇はこうした制度を廃止し、簡素かつ実効的な制度へ置換するという大規模な改革を行った。この改革は、律令制の理念を守りながら、再編成を意図したものであり、桓武天皇は、長岡京平安京への遷都や、対蝦夷戦争への積極的な遂行を実施した。またそれらの中断・中止も行われた。これらは従来とは異質の統治体制を築こうとするものであり、律令制の再編成であると見るのが主な見解であるが、律令制が中核を大きく失い桓武天皇の時代期を律令制の実質上の終焉とする論者もいる。

ただし軍団兵士制の廃止は治安を悪化させ、軍事・警察の組織として検非違使がおかれるようにはなったものの、結果として戦国時代までおよそ7世紀の日本列島の混乱を招くこととなった。

また奈良時代の783年からは朝廷が貨幣を鋳造しはじめたが、インフレーション対策として度々改鋳が行われており、皇朝十二銭改鋳のたびに目方と質が低下したため(デノミネーション)、信用低下と銭離れが生じ、平安時代終期には物々交換経済への逆戻りが見られた[30]

国司受領への権限委譲が進んだ。
格・式への移行と律令制の衰退

その後、9世紀の前期から中期にかけて、律令制を再整備しようとする動きが活発となる。律令の修正法である格(きゃく)と律令格の施行細則である式(しき)が、大宝律令の施行以後、多く残されていたが、820年にそれらを集成した弘仁格式が編纂された。更に830年には、天長格式が撰修され、834年には令の官製逐条解説である『令義解』(りょうのぎげ)が施行された。これらは、律令制の実質を維持していこうとする意思の表れだった。しかし、律令制の弛緩、換言すれば別の統治体制への移行は、時代を追うたびに進展し、特に班田制の崩壊が著しかった。こうした状況下で、870年前後に貞観格式が編纂・頒布されるとともに、868年には、律令条文の多様な解釈を集成した私的律令解説本の『令集解』(りょうのしゅうげ)が惟宗直本により記された。

宇多天皇の元で働いていた菅原道真は同じく宇多天皇の側近で藤原時平の障害となり、時平は道真を遣唐使として唐に送ってしまおうとした。しかし道真は宇多天皇からの遣唐使要請を拒否し、894年に遣唐使を廃止した。これにより日本独自の文化である国風文化の時代がやってくることになる。律令制は唐の国を見習ったものであったこともあったので唐との交流がなくなってしまったことも衰退の一因といえる。907年に唐が滅ぶとその要因は強くなった。

901年に道真は藤原時平の陰謀で醍醐天皇への謀反の濡れ衣を着せられて太宰府へ左遷され(昌泰の変)、同地で903年に没した。道真の死から6年後に藤原時平が39歳の若さで病死する。その後も京都では道真の怨霊だと言わんばかりの天候不順や役人の死が醍醐上皇が930年に崩ずるあたりまで続く。

朱雀天皇の時代に律令国家衰退を象徴する事件が東西で起こった。律令制の元での政治に不満を持つ人々を率いて関東での平将門瀬戸内海での藤原純友の朝廷打倒の反乱である(承平天慶の乱)。これには平将門の乱は平貞盛率いる平氏が、藤原純友の乱は源経基率いる源氏が鎮圧にあたった。これにより源平二氏が進出するきっかけになって、時代はやがて律令国家から武家社会へと移行することになった。

967年には、最後の格式となる延喜式が施行された。しかし、律令制はこの時期にほぼ実態を失ってしまう。多くの論者が、律令制は遅くとも10世紀末までに死滅したとしている。律令制に基づく律令国家から請負統治に依拠する王朝国家(前期王朝国家)へ転換したとする見解が広範な支持を得ている。ただし、律令制の死滅は、律令もしくは律令法の死滅を必ずしも意味していないので、律令の名目上の完全な終焉時期も重要であるが、制度としての律令制が崩壊したことに注意する必要がある。


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