征韓論
[Wikipedia|▼Menu]
日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された[14]。[要出典]。明治元年12月には木戸孝允が「使節を朝鮮に派遣して無礼を譴責し、相手が不服ならばその罪を問う」という征韓論の原型となる記述を日記に残している[15]。木戸は征韓を行えば国内が一致団結し、旧弊が洗い流されるだろうとしている[15]

明治3年1870年)2月、明治政府は佐田白茅森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況(後述)に憤慨し、帰国後に征韓を建白した[16]。9月には、外務権少丞吉岡弘毅釜山に遣り、明治5年1872年)1月には、旧対馬藩主の宗義達外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。[要出典]朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。[要出典]

また政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。[要出典]当時外交官として釜山に居た佐田、森山等はこの乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。[要出典][17][18]
征韓論政変詳細は「明治六年政変」を参照
政変の概要

参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず、自ら使節になろうとし、板垣退助後藤象二郎江藤新平大隈重信大木喬任の諸参議が賛同して一旦内定したが、正式決定は岩倉使節団の帰国を待つこととした。使節団帰国後も、遣使問題は延引され、大久保利通副島種臣の参議就任を待って賛否両論が闘わされた[19]岩倉具視、大久保、木戸孝允らは遣使に反対し、病に倒れた太政大臣三条実美に代わって閣議を主導した太政大臣代行の岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり、10月24日、閣議決定は無期延期とされた。同日、西郷が参議と近衛都督を辞任し、翌25日、板垣、副島、後藤、江藤が下野した[20]
政変の経緯

明治6年(1873年)、釜山の大日本公館駐在の外務省七等出仕である広津弘信が外務少輔である上野景範に宛てた5月31日付の報告書が契機[注釈 2]。となって、閣議で朝鮮問題が取り上げられた[22]。この閣議には、太政大臣の三条実美及び参議の西郷隆盛板垣退助大隈重信大木喬任江藤新平後藤象二郎が出席した[22]。板垣は居留民保護のために一大隊の兵を送り、その上で使節を派遣して交渉をすべきだと主張したが、西郷はそれに反対して、まずは責任ある全権大使を派遣して交渉すべしと主張した[23]。三条は使節は軍艦に搭乗し護衛兵を帯同すべきだと主張したが、西郷はそれにも反対し、烏帽子直垂の正装で非武装の使節を派遣することを主張した[24]。板垣も自説を撤回して西郷の提案に賛成し、後藤象二郎江藤新平らも賛成し、西郷は自らその使節に当りたいと提議したが、この日は決定には至らなかった[23]

その後、清国に出張していた外務卿の副島種臣が帰国すると、西郷は板垣に宛てた書簡で使節就任への強い思いを伝え、三条にも閣議開催を要求した[21]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef