その後、天慶3年(940年)に承平天慶の乱に際して藤原忠文が、平安時代末期治承・寿永の乱の際、寿永3年(1184年)には源義仲[3]が征東大将軍に任命されたが、蝦夷征討を目的としたものではない。 建武2年(1335年)に、信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、鎌倉を一時占拠するに至った。足利尊氏は討伐を願い出て、後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、結局、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉へ向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は時行を駆逐して、鎌倉を奪還することに成功した。
足利尊氏
脚注^ 養老律令には、軍防令に大将軍に関する規定をおいたが、実際にはこの規定に基づく大将軍が任命されたことはなく、大規模な軍を率いる偉大な将軍として大将軍と称された。
^ 紀古佐美の場合、延暦7年7月6日の任命の際は『続日本紀』では「征東大使」とされているが、同年12月7日辞見した際『日本紀略』では「征東大将軍」になっている。
^ 『吾妻鏡』などを根拠に、義仲が任官したのは「征夷大将軍」とする説が有力で、『玉葉』に記されている「征東大将軍」説を唱えるのは少数派であったが、『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条に、源頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が発見された。それによると、「大将軍」を要求した頼朝に対して、朝廷では検討の末、義仲の任官した「征東大将軍」などを凶例としてしりぞけ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」を吉例として、これを与えることを決定したという。これによって、義仲が任官したのは「征夷大将軍」ではなく、「征東大将軍」であったことが明らかとなった(櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」 『明月記研究』9号、2004年)。
関連項目
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