征夷
[Wikipedia|▼Menu]
奥羽脊梁山脈の東の陸奥国側では、庄内平野の蝦夷反乱の際に一時的に政情不安の状態に陥っていたようだが、その後は比較的平穏な状態が続いていた[15]

『続日本紀』慶雲4年5月26日707年6月30日)条の記述によると、7世紀中頃の白村江の戦いで唐軍の捕虜となり、40年あまりを唐土ですごしたのち、解放されて帰朝した3人の中に陸奥国信太郡出身の壬生五百足という人物がいたことが知られている[15]。一般的に景雲4年より以前に信太郡が成立していた証左とされ、8世紀初頭には大崎平野でも律令国家による建郡の動きがあったことがうかがえる[15]。しかし庄内平野とは異なり、大崎平野では建郡によって蝦夷反乱が引き起こされることはなかった[15]
奈良時代

※日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。
和銅元年体制
平城京遷都と蝦夷族長への君姓賜与

和銅3年3月10日710年4月13日)、元明天皇藤原京から平城京へと遷都した。その直後となる同年4月21日(710年5月23日)、律令国家は陸奥国側の蝦夷族長らに対して「君(キミ)の姓(カバネ)」を賜わり、編戸戸籍計帳に登載され、口分田を与えられて租庸調などの租税や労役を追う公民)と同じ待遇を保障することを許可している[原 10][16]。これは蝦夷族長クラスの住人から律令国家に対して公民化を願い出たものと考えられており、以来、君姓は律令国家の支配秩序の中に編成された蝦夷族長が名乗る姓として制度化されていく[16]。なお天平宝字3年10月8日759年11月2日)には「君」の字が「公」の字に改められており、蝦夷族長の君姓も公姓へと換えられている[原 11][16]

霊亀元年10月(715年)、邑良志別君・須賀君の君姓を持つ蝦夷族長の請願によって、彼らの本拠地近傍に郡家が建てられた[16]。陸奥の蝦夷第三等爵邑良志別君宇蘇弥奈の請願の主旨は「邑良志別君一族は親族の死亡により勢力が著しく弱体化したため、常に狄徒の襲撃に怯えており、その憂いを除くために香河村に郡家を建てたい」というものであった[原 12][16]。蝦夷須賀君古麻比留の請願の主旨は「自分たち須賀君一族は先祖以来毎年昆布を国家に貢献してきたが、送付先である陸奥国府までは往還に20日をも要し、たいへん辛苦が多いので、近くの閇村に郡家を建てて百姓(公民)と同様の待遇をえて、永く昆布の貢献をおこないたい」というものであった[原 12][17]
移民政策と陸奥国分割

和銅6年12月、大崎平野に丹取郡が建てられた[18]。近年の見解では、大崎地方中部以北の広大な地域を占める大規模な郡で、のちに丹取郡・志太郡黒川郡・色麻郡などの諸郡が母胎となって黒川以北十郡が分立したと考えられている[18]

霊亀元年5月30日715年7月5日)、坂東6国(相模国上総国常陸国上野国武蔵国下野国)から陸奥国へ富民1000戸の大量移民があった[原 13][18]

養老2年5月、陸奥国の石城郡標葉郡行方郡宇多郡亘理郡の5郡と常陸国の菊田郡石城国、陸奥国の白河郡石背郡会津郡安積郡信夫郡の5郡を石背国とした[18]。これによって陸奥国の領域は宮城県中南部の柴田郡名取郡伊具郡宮城郡の4郡と大崎平野の黒川郡・色麻郡・志太郡・丹取郡の4郡を併せた狭小なものになったとみられる[18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:275 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef