『続日本紀』慶雲4年5月26日(707年6月30日)条の記述によると、7世紀中頃の白村江の戦いで唐軍の捕虜となり、40年あまりを唐土ですごしたのち、解放されて帰朝した3人の中に陸奥国信太郡出身の壬生五百足という人物がいたことが知られている[15]。一般的に景雲4年より以前に信太郡が成立していた証左とされ、8世紀初頭には大崎平野でも律令国家による建郡の動きがあったことがうかがえる[15]。しかし庄内平野とは異なり、大崎平野では建郡によって蝦夷反乱が引き起こされることはなかった[15]。 ※日付は和暦による旧暦。西暦表記の部分はユリウス暦とする。 和銅3年3月10日(710年4月13日)、元明天皇が藤原京から平城京へと遷都した。その直後となる同年4月21日(710年5月23日)、律令国家は陸奥国側の蝦夷族長らに対して「君(キミ)の姓(カバネ)」を賜わり、編戸(戸籍・計帳に登載され、口分田を与えられて租庸調などの租税や労役を追う公民)と同じ待遇を保障することを許可している[原 10][16]。これは蝦夷族長クラスの住人から律令国家に対して公民化を願い出たものと考えられており、以来、君姓は律令国家の支配秩序の中に編成された蝦夷族長が名乗る姓として制度化されていく[16]。なお天平宝字3年10月8日(759年11月2日)には「君」の字が「公」の字に改められており、蝦夷族長の君姓も公姓へと換えられている[原 11][16]。 和銅6年12月、大崎平野に丹取郡が建てられた[18]。近年の見解では、大崎地方中部以北の広大な地域を占める大規模な郡で、のちに丹取郡・志太郡・黒川郡・色麻郡
奈良時代
和銅元年体制
平城京遷都と蝦夷族長への君姓賜与
移民政策と陸奥国分割
霊亀元年5月30日(715年7月5日)、坂東6国(相模国・上総国・常陸国・上野国・武蔵国・下野国)から陸奥国へ富民1000戸の大量移民があった[原 13][18]。
養老2年5月、陸奥国の石城郡・標葉郡・行方郡・宇多郡・亘理郡の5郡と常陸国の菊田郡を石城国、陸奥国の白河郡・石背郡・会津郡・安積郡・信夫郡の5郡を石背国とした[18]。これによって陸奥国の領域は宮城県中南部の柴田郡・名取郡・伊具郡・宮城郡の4郡と大崎平野の黒川郡・色麻郡・志太郡・丹取郡の4郡を併せた狭小なものになったとみられる[18]。