征夷大将軍
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江戸:14徳川家茂[改 15]安政5年10月25日
(1858年11月30日)慶応2年7月20日
(1866年8月29日)内大臣正二位右近衛大将 → 従一位右大臣右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:15徳川慶喜[改 16]慶応2年12月5日
(1867年1月10日)慶応3年12月9日
(1868年1月3日)正二位権大納言右近衛大将 → 内大臣正二位右近衛大将
明治維新後、従一位公爵貴族院議員勲一等旭日大綬章
勲一等旭日桐花大綬章
贈征夷大将軍(没後に征夷大将軍を追贈された人物)
徳川綱重宝永7年8月23日(1710年9月16日)追贈甲斐甲府藩主、江戸幕府6代徳川家宣の父。
参議正三位、贈権中納言従三位、のち贈太政大臣正一位

改名^ 惟康王→源惟康→惟康親王
^ 高氏→尊氏
^ 義宣→義教
^ 義成→義政
^ 義尚→義煕
^ a b 義材→義尹→義稙
^ 義高→義遐→義澄
^ 義藤→義輝
^ 義親→義栄
^ 義秋→義昭
^ 松平元信→松平元康→徳川家康
^ 綱豊→家宣
^ 松平頼方→徳川吉宗
^ 家祥→家定
^ 慶福→家茂
^ 松平昭致→慶喜

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 鎮守将軍と同格。
^ 源頼朝以降は例外が無い。
^ 同時に佐伯石湯が征越後蝦夷将軍に任じられた。
^ 養老4年9月28日に陸奥按察使上毛野広人が殺害され、翌29日に多治比縣守が持節征夷将軍に任命された。
^ 紀古佐美の場合、延暦7年7月6日の任命の際は、『続日本紀』では「征東大使」に、『日本紀略』では「征東将軍」になっている。
^ 将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。
^ 「征東大使」として、他に藤原継縄藤原小黒麻呂などの任命例もある。
^ 他の征東・征夷の将軍は、大の付く付かないにかかわらず、天皇より節刀を授かり全権を委任されていたが、文室綿麻呂に限っては節刀を授かっていない。
^ 建久3年(1192年)の征夷大将軍就任で下文が「将軍家政所下文」に変わったが、建久5年10月以降に再度、文書の形式が「前右大将家政所下文」に戻る。これを頼朝が征夷大将軍辞官の意思表示をしたための変更と解釈する説である。一方で高橋富雄は「辞任ならば終官が最も重んじられ『前将軍』が使用されるはずだがそうではなく、『前右大将』が使用されたのは、その方が権威があるからに過ぎない」として辞任否定説を取る[10]。また、受理されたか否かも別問題でこれも論争があり、石井良助は『尊卑分脈』の頼朝の建久3年(1192年)7月将軍就任記述の後、同5年10月10日条に「辞将軍」とあることから、頼朝が実際に将軍を辞任したとの説を取る。
^山槐記』(中山忠親の日記)と『荒涼記』(藤原資季の日記)から除目・諸行事・諸事について抄出したもの。『山槐記』からの抜粋に藤原定能の記事が多く、資季は定能の孫であることから、編者は定能・資季の子孫と察せられる。
^ 同時に、義仲が任官したのも『吾妻鏡』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『玉葉』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった。
^ 摂家将軍はそれに準ずる
^多聞院日記』天正12年(1584年)10月16日条にある、公卿就任の際に、朝廷から征夷大将軍を兼任するよう勧められたが断ったという記述による。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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