征夷大将軍
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頼朝以降、武家の棟梁は、征夷大将軍に任官され、高い位であり、皇室に繋がる血筋[注釈 12]の伝統となった。
摂家将軍・宮将軍

鎌倉時代以降、幕府の政治力は徐々に高まっていった。しかし頼朝の実子として鎌倉殿・将軍に就いた源頼家は権臣の北条氏に比企能員の変で幽閉・暗殺され、その北条氏によって擁立され鎌倉殿・将軍に就いた頼家の弟の源実朝は頼家の子の公暁に暗殺された。

頼朝の直系血統が絶えると、公卿の条件に適う将軍を関東内で戴くことができなくなったため、当初北条氏は皇族の将軍就位を求めたが、後鳥羽上皇に拒絶された[19]。このため頼朝妹の血統をもつ摂関家から2歳の三寅を鎌倉殿に迎え、北条政子従二位)が後見した。

正室となったのは頼家の娘であり、実朝正室西八条禅尼の猶子であった竹御所であった[20]。三寅は6年後に元服した後に藤原頼経を名乗り征夷大将軍に就くが、実権は乏しく、傀儡であったと見られている[21]。しかし北条泰時死後の混乱につけこみ、反得宗家の御家人を糾合して長子北条経時の執権就任に反対するなどの動きを見せた[22]。この直後、子の藤原頼嗣が6歳で元服し、将軍職を譲らされるが、これはその影響であったと見られている[22]。しかし頼経はその後も隠然とした勢力を保ち[23]名越光時ら反得宗勢力と連携して北条時頼と対立し(宮騒動)、その直後京都に送還された[22][24]。また頼嗣も、僧了行らの謀反事件の煽りを受けて廃位されている[25][26]

その後、皇族が将軍として迎えられ、いわゆる「宮将軍」となったが、「得宗専制」と称される幕府の中では、得宗家の傀儡に過ぎなかったという見方が支配的である[19]。六代将軍宗尊親王は正室の密通事件が発生する中で謀反の嫌疑をかけられて京都に送還され[27]、七代将軍惟康親王は自身の地位を持明院統大覚寺統による両統迭立問題に翻弄された形となり『増鏡』において「将軍宮こに流され」と表現されるように、ほぼ罪人扱いで京都に追放されている[19]久明親王は理由は不明であるが33歳で辞任して京都に戻り、守邦親王鎌倉幕府の滅亡とともに出家した[19]
建武政権・室町時代の将軍室町幕府を創設した足利尊氏
浄土寺所蔵の伝足利尊氏像、在職期間:延元3年 - 延文3年)

元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、天皇公家の親政と国衙復活を目指したが、その時期に征夷大将軍に就任したのが護良親王成良親王で、鎌倉時代後期の宮将軍以降は皇族が将軍であるのが常識だった[28]。だがその後、後醍醐の建武政権は恩賞や領地を巡り、武家との対立が勃発した。足利尊氏の叛旗で建武政権は瓦解し、尊氏は北朝を奉じて征夷大将軍に就任し京都に室町幕府を開くが、有力守護の細川氏・斯波氏・畠山氏などとの連立政権となり、公武政権の特色が増した。

だが、室町幕府3代将軍足利義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、征夷大将軍は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていたわけではない)。足利義満の王権簒奪で朝廷は統治権を失い、政治権力は史上最も低下した。将軍職を嫡男の足利義持へ譲ったのちも、権力は治天の位置を占めた義満に集中したままだった。

応永15年(1408年)5月、義満の急死後に将軍の権限が急速に回復し、細川管領と斯波義将ら宿老との連携の中、将軍権力と幕府機能が復活し、義満の政庁北山第も現・金閣を残し取り壊した[29]。以降に天皇と朝廷は揺り戻しや戦国大名の貴族化と猟官への接近による権威再建はあったが、統治権のない権威としての政府となり、幕府こそが日本全土を実質統治する政府となった[30]

足利義教の代には頻繁に守護大名家の相続に介入して独裁的な権力を行使したが、その殺害と守護大名主導の叛乱鎮圧により再び将軍権力は低下した。義政の代には、守護大名間の武力抗争に対し、朝廷のように半ば超然と振舞う存在となった。その子の足利義尚は実権回復を図り六角氏討伐軍を自ら率いたが、中途で病死し果たせなかった。

南北朝時代には、南朝北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍として名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。


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