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江戸幕府を創設した徳川家康
(在任:慶長8年 - 同10年)
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん、(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:征夷大將軍)は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である[注釈 1]。唐名は大樹(たいじゅ)、柳営(りゅうえい)、幕府(ばくふ)、幕下(ばくか、ばっか)。
朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降、江戸幕府が倒れるまで、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿(三位以上)[注釈 2]へ時間の前後はあるが補任され公権力の行使や荘園所有なども正当に認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍などさまざまにあった。また「大将軍」については、下毛野古麻呂、大伴安麻呂、大伴旅人などが蝦夷征討以外の目的で任じられた。 東国・奥州を征伐する将軍としては、太平洋側を進軍する征夷将軍(征東将軍)と日本海側を進軍する鎮狄将軍(征狄将軍)がいる。また陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官として鎮守府将軍がある。 蝦夷征討の初めての大将軍は、藤原宇合が持節大将軍に補任された。その後、奈良末期に、紀古佐美が征東大将軍に補任され、その後、大伴弟麻呂が初めて「征夷大将軍」に任命された。 この征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監
概要
坂上田村麻呂は大伴弟麻呂の後任の「征夷大将軍」に任じられ、阿弖流為を降して勇名を馳せた。
しかし、その後の征夷の将軍は、次の文室綿麻呂は征夷将軍に任ぜられ、征夷大将軍への補任の例は途絶えた,[1]。
源頼朝は平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始し、朝廷へ「大将軍」の称号を望み、朝廷は征夷大将軍を吉例として任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が、一時的な空白を挟みながら続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。
なお、この三幕府の間、源頼朝から徳川慶喜に至るまで将軍の官位は公卿の中でも従一位?正二位に任じられ、公権力の行使が正当に認められ、圧倒的な権威と地位を持った[2]。将軍を補佐する執権、管領、大老はおおむね従四位どまりであった[3][4]。 征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つである。「東夷」に対する将軍としては、和銅2年(709年)3月6日に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初となる[注釈 3]。養老4年(720年)9月29日には多治比縣守が持節征夷将軍に任じられ[注釈 4]、同日、「北狄」に対する持節鎮狄将軍に阿倍駿河が任じられた。天平9年(737年)に持節大使に任じられた藤原麻呂は従三位に補任されていた。「大使」はまた別に「将軍」とも呼ばれた。 「征東将軍」の初見は、延暦3年(784年)2月に任命された大伴家持であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年(788年)12月7日に辞見した紀古佐美である[注釈 5][注釈 6]。 延暦10年(791年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使[注釈 7]に就任。延暦12年(793年)2月17日、「征東使」は「征夷使」と改められる。 延暦13年(794年)1月1日、『日本紀略』にある「征夷将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うた」の記述が、「征夷将軍(征夷大将軍)」の初見とされる。弟麻呂の副使(副将軍)は坂上田村麻呂だった。 延暦16年(797年)11月5日、坂上田村麻呂が征夷大将軍に昇格。田村麻呂は胆沢の蝦夷のアテルイを撃破し、捕虜として京へ送った。田村麻呂は従三位(のちに正三位)へ補任された。 弘仁2年(811年)4月17日には陸奥按察使だった文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際し征夷将軍[注釈 8]に任じられ、同年閏12月11日には蝦夷征討の終了を奏上した。弘仁5年(814年)11月17日、綿麻呂は再度征夷将軍に任じられたものの、実際には征討は行われなかった。 頼朝は朝廷に対し「前大将」に代えて「大将軍」号を求め、朝廷は消去法的に「征夷大将軍」を採択し補任した(建久3年、1192年)[5]。 また以下の説もある。 源頼朝の一族(河内源氏)は軍事を家業として朝廷に仕える軍事貴族であった。しかし、伊豆の流人生活から東国武士団を率いて反平氏の旗を揚げた。頼朝の当初の立場は朝廷に公認されたものではなかった。頼朝は、まず朝廷から相対的に独立した「東国王権」を築き上げ、京都の朝廷では元号を養和と改元したが、頼朝は、そのまま治承の年号を使用した[6] 。その後、朝廷との関係も含め、先行する平氏政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンの比較検討から次第に政権構想が練られたのではないかといわれている。
歴史
奈良・平安時代
源頼朝鎌倉幕府を創設した源頼朝
(伝源頼朝像、在職期間:建久3年 - 建久10年)
東国の独立政権
平氏政権は、既存の貴族の家格秩序に従って官位昇進をし、天皇の外戚として朝廷の権力を掌握する道を選んだが、平氏の繁栄を誇示するだけになり、地方の実効支配者としての武士の代表としてうまく機能しなかった。これに対し、頼朝は東国の一定の独立性は保ちつつ朝廷に武家権力としての自主的統治権を認めさせるために交渉を重ねていくことになる。
平氏を追い落として京都を制圧した源義仲は、200年以上前に存在した征東大将軍に任官された。