征夷大将軍
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平氏を追い落として京都を制圧した源義仲は、200年以上前に存在した征東大将軍に任官された。征東大将軍の官名は東方を征伐する職務を示すもので、東国の頼朝に対抗する義仲の意図が推定される。義仲を滅ぼした頼朝もまたこれに匹敵する称号を望むこととなる。

当時の東北地方は、朝廷の支配が及ばない奥州藤原氏の独立した地方政権だった[7]。奥州藤原氏は鎮守府将軍の地位を得て、陸奥国出羽国における軍政という形での地方統治権を認められ100年支配した[8]。辺境常備軍(征夷大将軍の場合は臨時遠征軍)の現地司令官という性格を持つが故に在京の必要がなく、地方政権の首領には都合が良かった。頼朝自身も鎌倉に留まり続け、京都の朝廷から公認を受けつつ一定の独立性を保持しようとした。

近衛大将から征夷大将軍へ

建久元年(1190年)、頼朝は右近衛大将(右大将)に任官したが、近衛大将は中央近衛軍司令官という性格上在京しなければならず、半月も経ぬうちに辞任した。この右大将は官位相当こそ高いものの、源義仲の征東大将軍のように武士を統率して地方の争乱を鎮圧する地位ではなく、また奥州藤原氏の鎮守府将軍のように東国に独立の勢力圏を擁するに相応しい地位でもない。

そこで注目したのが、征夷大将軍という官職であった。坂東の武士を率いて行う蝦夷(奥州藤原氏)征服に大義名分を得るという目的からしても、また鎮守府将軍と同様に軍政(地方統治権)を敷く名分としても相応しく、故実からも鎮守府将軍より格上である格好の官職だった。

つまり、

東国武士の棟梁たる鎌倉殿という私的地位

守護追捕使)・地頭を全国に置き、軍事・警察権を掌握する日本国惣追捕使・日本国惣地頭という公的地位

右大将として認知された、家政機関を政所などの公的な政治機関に準ずる扱いを受ける権限

を、全て纏め上げて公的に裏付けられた一体的地位とするのが征夷大将軍職であったという見方もできる。
征夷大将軍の意義

しかし、頼朝にとって征夷大将軍職は、奥州藤原氏征討のためにこそ必要とされた官職であって、奥州合戦を経て実際に任官した建久3年(1192年)にはすでに必要なくなっていたという見方もある。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執せず、2年後には辞官の意向を示している[9][注釈 9]

また、嫡男の頼家は家督継承にあたり、まず左近衛中将、次いで左衛門督任官されており、征夷大将軍に任官したのはその3年後である。頼家が失脚する比企能員の変の際、惣追撫使・惣地頭の地位の継承が問題となった一方、征夷大将軍職は対象とされていない。従って、この段階の征夷大将軍は、武家の棟梁たる鎌倉殿や日本の軍事的支配者たる惣追撫使・惣地頭の地位と不可分なものではなく、さほど重視されていなかったことが窺える。

ただ、頼家の弟実朝の家督継承の際にはまず征夷大将軍に任官されている。これはクーデターである比企能員の変によって頼家やその嫡子一幡が存命する中で実朝を擁立した北条氏や、幕府を統御し実朝を諸国守護の任に当たらせようと考えた後鳥羽上皇にとって、鎌倉殿実朝の権威化という点で重要な意味を持ち、なおかつ無官の実朝にも任官できる令外官である征夷大将軍が好都合な官職だったからだと考えられている[11]

頼朝は朝廷の常設最高職である左大臣に相当する正二位でこの職に就き、同時に一部で朝廷との二重政権状態を残しつつ全国に武家支配政権を形作ったため、以降その神格化とともに天下人としての征夷大将軍の称号が徐々に浸透していく。また、後年に至るまで執権・管領・大老などの幕府次席職の官位は従四位止まりであり、(実権が伴わないとしても)将軍のみが隔絶して高い権威として全ての武士の上に君臨する慣習も、この時期に確立されている。
近年明らかになった新事実

これらの通説を覆す新史料として、『三槐荒涼抜書要』[注釈 10]所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が見つかった。それによると頼朝は、この時、「前右府」の号に代わる「大将軍」を望んだが、「征夷大将軍」を直接望んではいなかった。

それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官することにしたという。他の候補は、平宗盛の任官した「惣官」や、義仲の任官した「征東大将軍」[注釈 11]は凶例であり、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられた。これは当然の選定と言えるが、頼朝がこれを予期していたのかは不明である。なお従来の多く研究で、その前提に基づいた「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたが再検討の必要が生じている[12][13]

頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10世紀 - 11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏良文流平氏・秀郷流藤原氏頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の武門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている[14][15][16]。また、将軍職が武家にとり、戦いを指揮統制する地位で重んじられ、それらの上に立ちまとめる「大将軍」が、武門の棟梁として指揮統制するのに重要だったという説がある[13]

また、頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとされる点については、『吾妻鏡』建久3年(1192年)7月26日条の「将軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」等の記述から長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年(1184年)4月10日条の記事がこれと矛盾する内容を持つことが指摘された。この記事は頼朝が3月27日の除目正四位下に叙されたことを源義経の使者が知らせるもので、同条には除目の経緯が書かれている。それによれば、義仲討伐の戦功として、藤原忠文の先例に倣って征夷将軍の地位を与えることを後白河が検討したものの、議論によって叙位のみとなったとされている。ところが『玉葉』の寿永3年(1184年)2月20日及び3月28日条には頼朝からの申状によって、後白河から与えられるはずであった全ての官職を辞退して叙位のみを受けたことが記されている。この『吾妻鏡』と『玉葉』の記述を説明するには、後白河が既に終わった合戦の戦功として征夷将軍(=征夷大将軍)を与えようとしたものの頼朝が辞退したと解する他なく、平安時代初期の蝦夷征討が終わって久しい当時において、後白河・頼朝が共に征夷大将軍を名誉的な官職と見なし、「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職としては認識してはいなかった可能性がある。

さらに、寿永以後頼朝の征夷大将軍補任までの間に征夷将軍・征夷大将軍の地位や職権について議論された形跡が、京都・鎌倉双方の同時代史料からは確認できず、鎌倉殿の持つ権限は特定の官職によるものではなく、寿永二年十月宣旨文治の勅許等、鎌倉殿が朝廷によって承認されてきた東国支配権や諸国守護権等各種の軍事的・警察的諸権限によるものであり、頼朝・頼家・実朝3代の征夷大将軍自体は職掌・実権のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。

この説によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大将軍補任記事は征夷大将軍の権威が確立した後の脚色記事であり、実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つようになるのは、河内源氏嫡流が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿(摂家将軍)を迎えた時とされる。摂家将軍を擁立した執権北条氏鎌倉幕府側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍や宮将軍への継承を求め、承久の乱後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする見解を採っている[17]

ただし実朝に関してはそれ以前に朝官の経歴が皆無の者を征夷大将軍に任じた例がなく、さらに実朝が元服以前だったことを考慮するとその任官は前例を見ない緊急事態の中での特異な措置だったと言え、任官時にすでに公卿だった頼朝・頼家と比べればその特異性は明白であって、鎌倉殿を征夷大将軍と一体視する概念は実朝期に成立するとされている[18]

頼朝以降、武家の棟梁は、征夷大将軍に任官され、高い位であり、皇室に繋がる血筋[注釈 12]の伝統となった。
摂家将軍・宮将軍


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