彷徨五年
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一行は大和を出て11月1日に伊賀、翌2日には伊勢に入り伊勢神宮に勅使を派遣したが、この地で「10月23日に広嗣がとらえられた」という報告を受け広嗣を処断すべしとの指示を出す[36]。11月21日伊勢国の赤坂において陪従する文武百官に対し大々的な叙位を行った。12月1日に美濃の不破に到着、ここで随伴してきた騎兵部隊を解散させ平城京に帰らせた[37]。ここまでのルートは壬申の乱大海人皇子がたどった道を追体験したという説が有力である[38][39][37]。12月5日に不破を発し近江に入った聖武は6日に新都の準備のため橘諸兄を山城の相楽郡恭仁郷へ先発させた。12月15日聖武は恭仁の地に至り、元正太上天皇も当日恭仁の地に入り、続日本紀に「初めて京都を作る」と記録される[40][41]
恭仁宮の建設

年末に恭仁宮に入った聖武はこの地に留まって越年し、造営工事は急ピッチで進められた。翌天平13年の元日の朝賀の儀は恭仁宮で行われた。既に天皇の住まいである内裏の一部は出来上がっており、当日内裏で宴が行われた記録がある。しかし宮城を囲む大垣はなく帳をめぐらせただけの状態であった。正月11日には聖武は伊勢神宮や七道の諸社に使者を派遣し新京への遷都を報告させた[25][42]。平城京から恭仁宮への首都機能の移転は順次進められ、閏3月9日には平城宮にあった兵器を恭仁宮近傍の甕原宮に運ばせ、同15日には「5位以上の者は勝手に平城に住んではならず、現在平城にいる者は今日中に恭仁に還れ」との通達が出された。7月には元正太上天皇用の新宮ができ、元正太上天皇は10日に恭仁宮に移り、8月28日には平城京の東西の市の移設が完了した[43][44][45]。10月16日には左京の中心を流れる木津川に架かる橋が完成したが、この橋を架けたのは行基が指導する優婆塞の集団であったとされている[46][47]。行基はこの頃から聖武の方針に従って活動しており、後の大仏建立にも大きく寄与することになる。なお恭仁宮の大極殿は平城京に在ったものを解体して移築したものであるが、天平14年(742年)正月の朝賀には間に合わなかったが、翌15年正月には完成していた[48]。恭仁宮建設の最中の天平13年2月14日に仏教を全国の人民に広める事を目的とした国分寺国分尼寺建立の詔が出された[49]
紫香楽宮の造営と大仏建立の詔

続日本紀によれば、恭仁宮の建設が始まって約1年が経過した天平14年(742年)2月5日に、恭仁宮から近江国甲賀郡に向かう東北道が開かれた[50]。甲賀への道は途中に険しい山道もあって容易な工事ではないので、恭仁宮に遷都した後まもなくに着手したものと思われる[51]。同年8月11日に聖武は「朕、近江国甲賀郡紫香楽村に行幸せむ」と詔し、紫香楽離宮の建設工事を担当する「造離宮司」を任命し[51]、8月27日に多くの官人を引き連れて紫香楽に行幸し1週間滞在した。更に年末が押し詰まった12月29日にも行幸したが、この時は同行した太政官トップの橘諸兄を元旦に間に合うように恭仁宮に帰京させ、聖武自身は1月2日に帰京、本来元旦に行うべき朝賀の儀は3日に行われた[52]。天平15年4月3日に三度目の紫香楽行幸を行うが、この時は政権主班の橘諸兄を恭仁宮に残し、五位以上の貴族28人と六位以下の官人2370人を随行させ13日間滞在した。聖武が官人たちに造営が進んでいる紫香楽宮をお披露目したと考えられる[52][53]。1回目と3回目の行幸に際しては留守官を恭仁宮と平城の両方に任命しており、平城が依然として首都機能の一部を担っていたと考えられる[54][55]。7月26日に始まった紫香楽への四度目の行幸は11月2日まで続いたが、この間の10月15日に紫香楽宮において廬舎那仏(大仏)発願の詔が出された[56][57]。廬舎那仏は当時全国に設置中の国分寺のうち首都に建設する国分寺の本尊として造立される[58]。16日には東海道東山道北陸道の25か国の調と庸を紫香楽に運ぶ指示が出され、19日には行基が弟子たちを率いて大仏造立に参加した[59]
恭仁宮の造作停止と難波宮への遷都

天平15年12月26日の続日本紀には、平城京から移設した大極殿の造営はほぼ完了したが、紫香楽宮の造営に注力するために以後は恭仁宮の造作を停止する旨の記述がみられる[60][61][57]。翌天平16年(744年)正月には百官と恭仁宮の市人に恭仁宮と難波宮のどちらを都にすべきかを問うが、百官の意見は別れ、市人は恭仁宮残留を望んだ[62]が、聖武は恭仁宮を出て難波への遷都を開始する。1月11日に難波宮に行幸し約2か月間滞在した[57]。2月1日に天皇の公文書に押される内印と太政官の公文書に押される外印と駅令が恭仁宮から難波宮へ送られ、2月20日には天皇の御座所である高御座と首都を象徴する大楯が運ばれ、同日に武器類も送られ、首都としての恭仁宮は廃された[63][64]。しかし2月24日に聖武は紫香楽宮に戻って大仏造立に専心し、翌年5月には紫香楽宮で叙位を行っている[65]


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