これにより、『乱』の主演が内定していた仲代達矢が代役として起用されることとなった(なお、当時の新聞上では仲代の代役が発表される以前に緒形拳、原田芳雄[注釈 1]らの名前が報道されていた)。仲代は勝とは気の合う友人同士だったので、撮影前に黒澤組のことを聞かれ、「勝さん、黒澤さんの言うことは全部聞いた方がいいよ」とアドバイスしていた[20]。代役のオファーを受ける前にまず勝に了承を得ようとしたが、どうしても連絡が付かなかったという[21]。仲代は急な登板ながら独自の影武者像を作り上げたが、マスコミからは「勝の主演で見たかった」という感想もあった。また、恩義のある黒澤から代役に指名されて「光栄です」と発言したことを、「役者の仁義に反する」と批判されたりもした[20]。この騒動で勝とは疎遠になっていたが、1996年に仲代の妻宮崎恭子が亡くなると葬儀に勝があらわれ、互いに抱き合ったという[22]。
勝自身は降板後も未練があったようで、いろいろな伝手で復帰を画策していた模様である[17]。有楽町で行われた試写会に勝が現れると、黒澤と仲代が咄嗟に隠れたというエピソードもある[17][23]。映画を観た勝は「(映画は)面白くなかった」「おれが出ていれば面白かったはずだ」とコメントした。 主要な配役以外のキャストはオーディションで決められ、職業俳優から素人まで1万5000人が応募した[4]。そのうち油井昌由樹、隆大介、清水大敬(当時は「清水のぼる」名義)、阿藤海、島香裕などの新人俳優、無名俳優が出演した。また、無名時代の南部虎弾(クレジットでは南部虎太)も出演している。黒澤映画の常連俳優では、志村喬と藤原釜足が最後の出演となった。 音楽では、過去に何度も黒澤とコンビを組んでいた佐藤勝が15年ぶりに参加したが、ダビング段階で黒澤と対立して降板した[4]。黒澤は映画の音楽のイメージを伝えるために既成曲を示し、それに似たような音楽にするよう指示することが多く、本作でも黒澤はグリーグの『ペール・ギュント』と似た音楽を要求したが、佐藤はそのプランに納得できず降板した[24]。そのため武満徹に打診したが、結局アメリカにいた武満の推薦で池辺晋一郎が起用されることになった[4]。池辺は以後の黒澤作品4作のうち、『乱』を除く3作でも音楽を担当することになる。 宣伝4億円[25]。4億円は当時の平均的サラリーマン40人分の退職金と大体同額にあたる[25]。
キャストとスタッフ
宣伝
公開上映が有楽座で行われた[14]。このプレミアには1200人が招待され、コッポラをはじめウィリアム・ワイラー、アーサー・ペン、サム・ペキンパー、テレンス・ヤング、アーヴィン・カーシュナー、ジェームズ・コバーン、ピーター・フォンダなども出席した[14][26]。