強制的同一化
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これまでの民間青少年団体は解散させられ、ナチ党の団体のみに統一された。学校内部にもナチ党の指導が及ぶようになり、1936年12月1日にはヒトラーユーゲント法が成立し、ヒトラーユーゲントは学校・家庭と並ぶ教育機関であると位置づけられた。

青少年の民族教育は党によって、「われわれが欲するままの人間へと」[42]、「自分自身のために過ごすことのできる時期があるなどとは、誰にも言わせはしない。」[41] ように絶え間なく行われた。また、家庭でも民族教育が行われることが強制され、それを怠った場合には処罰や子供からの損害賠償請求の対象となった[43]
血統ゲッベルスと子供達。1937年

ナチズムにとって民族共同体を汚すと考えられたものが、優良な民族に対する「種的変質者」や「劣等民族」との混血であった。このうち前者には再犯の蓋然性が見られると判定された、精神障害者を含む「常習犯罪者」・同性愛者をふくむ「道徳犯罪者」・「少年犯罪者」などの「質的犯罪者」、大酒飲みや売春婦のような不道徳な生活を送る者、精神・身体の障害者、遺伝病保持者などが含まれる。これらの「種的変質者」は「劣等な子孫を残すこと」も民族共同体への害になるとして、裁判や断種法に基づく不妊手術や死などの処分が取られた[44]。障害者に対するものとしてはT4作戦が知られている。

また劣等民族のうちドイツ民族と「正反対の人種」であるユダヤ人への迫害は政権獲得以後急速に進んだ。1933年3月26日には突撃隊によるユダヤ人商店のボイコットが全国的に行われた。この行動は今まで反ユダヤ主義の見られなかった地域でも、ユダヤ人に対する迫害が始まるきっかけとなった[45]。4月7日にユダヤ人を含む非アーリア人は公職から追放された。さらに対象は弁護士、医師、農民にまで及んだ。さらにドイツ民族との結婚は1935年のニュルンベルク法で禁止された。これらの政策は後にホロコーストにつながることになる。

一方で優良な民族の血を持つ者には結婚と多産が奨励され、避妊や堕胎は禁じられた。ゲッベルスとの子が6人、前夫との子も含めると7人もの子を産んだゲッベルス夫人はあるべき母親の姿として喧伝された。
迫害宣伝省制作によるユダヤ人排斥の映画『永遠のユダヤ人』の上映館

ヒトラーは全権委任法成立前の演説で、「国民政府は国家と国民の生存を否定しようとするすべての分岐を(民族共同体)から追放することを自らの義務」とみなし、「民族に対する裏切りは仮借なき野蛮さでもって焼き払われなければならない」とした[43]。こうした追放の対象は、反ナチス思想の持ち主や、種的変質者や劣等民族に加え、「外国への通謀者」(Landesverrater)や、困難な時期に窃盗などを行って利得を図る「民族の害虫」なども含まれる。

1934年4月24日には特別裁判所として人民法廷(民族裁判所、Volksgerichtshof)が設置された。この裁判所は大逆罪、背反罪、ヒトラーに対する攻撃などを管轄した。ゲッベルスは「判決が合法的であるか否かは問題ではない。むしろ判決の合目的性のみが重要なのである。(中略)裁判の基礎とすべきは、法律ではなく、犯罪者は抹殺されねばならないとの断固たる決意である。」と演説し、これを受けて所長となったローラント・フライスラーは被告人の半数近くを死刑へと追いやった[46]

また、共同体にそぐわないと考えられた者には時として法によらない処分が行われた。共産党員などの強制収容所への保安拘禁、第二革命を唱える突撃隊幹部を殺害した「長いナイフの夜事件」、「水晶の夜」事件のユダヤ人商店の破壊などはその例である。
国民の反応

この期間、ドイツ国民の間からは大きな反発がおこらなかった。1933年の国際連盟脱退、1936年のラインラント進駐などのドイツ国民が悲願とするヴェルサイユ体制からの離脱など、政策が支持を集めたこと、失業者減少にある程度成功したことがある。11月12日に国会選挙とともに行われた民族投票では、95.1%が賛成票であり、ダッハウ強制収容所に収監されていた政治犯のほとんどもヒトラーの政策に賛成票を投じた[47]。ただし投票の監視はこの頃にも行われており、投票場への組織的な駆り出し、集会参加の強制、投票内容の監視が行われた[48]。棄権者が処罰される事件も起こっている。また断種措置の根拠となる優生思想やユダヤ人迫害などはすでにヴァイマル共和政時代からその萌芽が存在していたことも一因であった。

しかし強制的同一化の過程で行われた国民動員とプロパガンダが、国民から考える時間と材料を奪った。ミルトン・メイヤー(en)がインタビューした言語学者は、全く新しい活動「集会、会議、対談、儀式、とりわけ提出しなければならない書類」など、以前には重要でなかったことに参加しなければならないか、もしくは参加することを「期待」されていた。それにエネルギーを使い果たし、考える時間はなくなったと回想している。「私たちに考えなければならない課題を突きつけながら、ナチズムは、しかし、絶え間ない変化と『危機』でもって私たちの目を回らせ、心を奪い取っていったのです。まったくのところ、内外の『国家の敵』という陰謀に、私たちの目は見えなくなっていました。私たちには、少しずつ私たちの周りで大きくなっていった恐るべき事態について考える時間はありませんでした。」[49]

当時、特派員としてドイツに滞在していたウィリアム・L・シャイラーは、多くの人が新聞やラジオの情報とほぼ同じことを語っており、「全体国家の中で、検閲された新聞やラジオによって、人がいかにたやすく獲得されるかを経験することが出来た」と回想している[50]。強制的同一化を経た人々は、それが政府の強制でなく自分から自発的に生み出されたものだと感じており、メイヤーがナチ党員の証言をまとめた本のタイトル『彼らは自由だと思っていた』(They Thought They Were Free)もそれを現している。

1938年9月26日、ズデーテン危機に際してベネシュ大統領に戦争か平和かを突きつけたヒトラーの演説は、強制的同一化が完成した彼の理想形を表すものであった。今や、私が民族の第一の兵士としてその先頭に立ち、私のあとには1918年当時とは全く別の民族が行進しつつある。今この瞬間、ドイツ民族全体が私と一体となるであろう。彼らは私の意思を自己の意思として感ずるであろう。 ? 1938年9月26日、シュポルトパラストにおけるヒトラー演説、南利明訳[51]

第三帝国下のナチ党地方組織による活動報告ではナチスの民衆統制政策が不徹底な形でしか及んでいなかった事が判明している。

それらの実態の記録として以下のようなものとなる。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}収穫記念章(Erntefest-Abzeichen)の入荷に伴って、宿泊者に宿泊料を支払わせるのと同じ様な形式でこの記念章を売り捌いた時の住民の反応振りを報告したい。私は生まれてはじめて次の様な(失礼な)言葉に出会った。『お前さんにはっきりと云っておくが、この様なつまらない物は、今の所買わないよ』、『これで私は始末をつけるよ』。一般に人々はこう云っている。『馬鈴薯の収穫がとても悪いので、目下のところ冬期救済事業に出す金が殆ど、または全くない』と。—バイエルン東マルク大管区ゼルプウンターヴァイセンバッハ準支部
1935年9月27日付 活動・世論報告[52]前年の収穫祭は全く当地区指導部のみの努力によって敢行されたので、当地区の指導部は、ホーエンベルクの農民がこの催しに積極的に協力しないのならば、収穫祭は行わない、と宣言した。…当地の農民は大部分がこの催しに参加しないし、何らかの形での協力など、とてもしてくれないからである。住民の以上の様な態度は、個々の農産物に対して農民側が勝手な固定価格をつけることを村長が妨害したためなのである。—ゼルプ郡ホーエンベルク地区支部
1935年10月24日付 世論報告[53]レグニッツローザウ地区農業生産者団指導者(Ortsbauernfuhrer)S氏は、党費が余りに高いので党から脱退すると声明した。彼は自分の属する党ブロック指導者に『党費を払う代わりに(その金で)毎年二揃の長靴を買うつもりだ』と話した。—バイエルン東マルク大管区ゼルプ市レグニッツローザウ地区支部
1935年5月27日付 世論報告[54]党婦人団長は、多数の婦人が同団を脱退するので嘆いている。脱退者の中には町長夫人もいるが、それは多分、農業生産者団が党婦人団と消極的な形で対立しているからであろう。この問題は十分に調査される。—フランケン大管区アイヒシュテット郡
1935年5月付 宣伝局長報告[55]8月には「研修の夕べ(Schulungsabend)[注釈 2]」がはじまった。参加者は中位。市民たち、実業家の欠席が目立った。参加者が僅かなことについて党地区指導者殿から特に叱責をうけた。官吏たちは研修の夕べに参加するよう、またこの催の意義について、特別の訓示をうけた。—エーバーマンシュタット
1935年8月31日付 州警察郡本署月間報告[56]多くの農民は収穫感謝祭に参加せず、「比較的暮らし向きの良い農民」は全く参加していない。—クロナハーシュタットシュタイナハ郡チルン準支部
1937年10月19日付 世論報告地区指導者と党員との個人的な面談では、多くの党下士官層、即ち、それぞれが指導者足らねばならない人々が、我々とはかけ離れた世界観をもっていること、従って戦争の際には、彼等は軍が必要としている精神的支柱とはなり得ないこと、等の重大な欠陥が明らかとなった。古参で功績のある党員が現在なお党の兵卒の地位にある場合には、彼等に各種の研修の機会を与え、彼等を党下級指導者へと教育しあげる事が今後ぜひとも必要であろう。…この方針は党員を不当に優遇するためのものではなく、国土防衛のために必要なことなのである。—レキンゲン地区支部
1938年3月30日付 世論報告[57]あらゆる微候からみて状況はかなり平穏となった。


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