これらの政策により、ナチ党は1945年のドイツ降伏までの12年間、ドイツを統治し続けた。しかし国民全体の完全な同一化は達成されなかった。企業や軍部に対するナチ党の侵入も完全に徹底されたわけではなく、圧力団体としての抵抗力を残した[60]。また告白教会や黒いオーケストラなどの反ナチ運動に加入する、反ナチ的な思想を持つ人々は残存しており、ナチス教育を受けた世代でも白いバラなどの勢力が生まれた。
また、これを指導するべきナチ党の指導者間でも権力闘争が頻発した。これは同一化されるべき民族共同体の定義が曖昧であったことも一因であった。ゲッベルスが「ナチズムは個別の事柄や問題を検討してきたのであって、その意味では一つの教義を持ったことがない」と発言したように、民族共同体の定義は発言する者によって微妙な相違があった[61]。ヘスは党活動による統治を、ヒムラーは神秘主義的な人種国家大ゲルマン帝国を、フリックは官僚国家、リヒャルト・ヴァルター・ダレは血と土のイデオロギーに基づく「血と土の新貴族」による世界を、ロベルト・ライは労働戦線を主体とした「労働の貴族による業績共同体」、バルドゥール・フォン・シーラッハはヒトラーユーゲントの主導する世界を構想していた。彼らはそれぞれの理想を実現するために、自らの支配下でその路線を推し進め、一方では権力抗争を繰り広げた。これをハンス・モムゼン
(en)などの研究者は激しい権力闘争に見舞われた「機構的アナーキー」状態であったと見ている。これらの権力闘争の中で闘争を超越した、シンボリックな「ヒトラーの意思」は絶対的なものとなった[62]。