強制的同一化
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当時、特派員としてドイツに滞在していたウィリアム・L・シャイラーは、多くの人が新聞やラジオの情報とほぼ同じことを語っており、「全体国家の中で、検閲された新聞やラジオによって、人がいかにたやすく獲得されるかを経験することが出来た」と回想している[50]。強制的同一化を経た人々は、それが政府の強制でなく自分から自発的に生み出されたものだと感じており、メイヤーがナチ党員の証言をまとめた本のタイトル『彼らは自由だと思っていた』(They Thought They Were Free)もそれを現している。

1938年9月26日、ズデーテン危機に際してベネシュ大統領に戦争か平和かを突きつけたヒトラーの演説は、強制的同一化が完成した彼の理想形を表すものであった。今や、私が民族の第一の兵士としてその先頭に立ち、私のあとには1918年当時とは全く別の民族が行進しつつある。今この瞬間、ドイツ民族全体が私と一体となるであろう。彼らは私の意思を自己の意思として感ずるであろう。 ? 1938年9月26日、シュポルトパラストにおけるヒトラー演説、南利明訳[51]

第三帝国下のナチ党地方組織による活動報告ではナチスの民衆統制政策が不徹底な形でしか及んでいなかった事が判明している。

それらの実態の記録として以下のようなものとなる。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}収穫記念章(Erntefest-Abzeichen)の入荷に伴って、宿泊者に宿泊料を支払わせるのと同じ様な形式でこの記念章を売り捌いた時の住民の反応振りを報告したい。私は生まれてはじめて次の様な(失礼な)言葉に出会った。『お前さんにはっきりと云っておくが、この様なつまらない物は、今の所買わないよ』、『これで私は始末をつけるよ』。一般に人々はこう云っている。『馬鈴薯の収穫がとても悪いので、目下のところ冬期救済事業に出す金が殆ど、または全くない』と。—バイエルン東マルク大管区ゼルプウンターヴァイセンバッハ準支部
1935年9月27日付 活動・世論報告[52]前年の収穫祭は全く当地区指導部のみの努力によって敢行されたので、当地区の指導部は、ホーエンベルクの農民がこの催しに積極的に協力しないのならば、収穫祭は行わない、と宣言した。…当地の農民は大部分がこの催しに参加しないし、何らかの形での協力など、とてもしてくれないからである。住民の以上の様な態度は、個々の農産物に対して農民側が勝手な固定価格をつけることを村長が妨害したためなのである。—ゼルプ郡ホーエンベルク地区支部
1935年10月24日付 世論報告[53]レグニッツローザウ地区農業生産者団指導者(Ortsbauernfuhrer)S氏は、党費が余りに高いので党から脱退すると声明した。彼は自分の属する党ブロック指導者に『党費を払う代わりに(その金で)毎年二揃の長靴を買うつもりだ』と話した。—バイエルン東マルク大管区ゼルプ市レグニッツローザウ地区支部
1935年5月27日付 世論報告[54]党婦人団長は、多数の婦人が同団を脱退するので嘆いている。脱退者の中には町長夫人もいるが、それは多分、農業生産者団が党婦人団と消極的な形で対立しているからであろう。この問題は十分に調査される。—フランケン大管区アイヒシュテット郡
1935年5月付 宣伝局長報告[55]8月には「研修の夕べ(Schulungsabend)[注釈 2]」がはじまった。参加者は中位。市民たち、実業家の欠席が目立った。参加者が僅かなことについて党地区指導者殿から特に叱責をうけた。官吏たちは研修の夕べに参加するよう、またこの催の意義について、特別の訓示をうけた。—エーバーマンシュタット
1935年8月31日付 州警察郡本署月間報告[56]多くの農民は収穫感謝祭に参加せず、「比較的暮らし向きの良い農民」は全く参加していない。—クロナハーシュタットシュタイナハ郡チルン準支部
1937年10月19日付 世論報告地区指導者と党員との個人的な面談では、多くの党下士官層、即ち、それぞれが指導者足らねばならない人々が、我々とはかけ離れた世界観をもっていること、従って戦争の際には、彼等は軍が必要としている精神的支柱とはなり得ないこと、等の重大な欠陥が明らかとなった。古参で功績のある党員が現在なお党の兵卒の地位にある場合には、彼等に各種の研修の機会を与え、彼等を党下級指導者へと教育しあげる事が今後ぜひとも必要であろう。…この方針は党員を不当に優遇するためのものではなく、国土防衛のために必要なことなのである。—レキンゲン地区支部
1938年3月30日付 世論報告[57]あらゆる微候からみて状況はかなり平穏となった。(教会とナチ党の対立を指す)…驚くべき事には、住民は最も重大な事件(チェコスロバキア併合)について、ほんの僅かな関心しか示していない。…これは政府を信頼しているためと理解すべきだと、私は考えておきたい。…突撃隊では不熱心さが目立っている。特に催しへの参加者が非常に少ない。どの催しにも同じ顔ぶれの隊員だけが出席しており、しかもその連中は通常かなり老人で、即ち満期兵たちである。ヒトラーユーゲント、少年団、少女団はいばら姫の様に眠り込んだままであって、…支持者が非常に少ない。…ドイツ労働戦線、即ち(同団の)地区代表(Ortsobmann)は、英雄顕彰の日(Tag der Heldenehrung)に輝かしいお手本を示した。というのも、この祭典に彼もその部下も全然現れなかったからである。―いつも他団体の後について行進するのはいやだという口実で。私の想像するところ、多くの会員は既に赤十字団に移行しており、そちらの行列に参加しているからである。しかし少なくとも彼は、地区の(ドイツ労働戦線)団旗だけは参加させるように勧誘すべきであったろうに。このこともまた行われなかった。—フランケン大管区アイヒシュテット郡ナセンフェルス地区支部
1939年3月22日付 世論報告[58]

以上の如く、第三帝国下の民衆が通説で主張されてきたよりも遙かに実利的な生活態度をとっており、ナチ党の宣伝によって洗脳されたり、おどらされた形跡が通説程は無かったこと、民衆の社会生活が、その底辺において緩やかな変化を遂げつつも、基本的には連続性を保っていたことが窺える。しかし、強制収容所における残虐行為や、戦時下の占領地における官憲の蛮行といった行為も政策も、本国におけるここにみるような意外に平凡な現実を土台として、しかも伝統的性を維持する社会諸集団、支配勢力、一般民衆の支持と寛容の下に行われた、という事を重視すべきである。

ナチスが社会を変革出来なかったのは、彼等が変革を欲しなかったからであり、また彼等が変革に必要な強い貫徹力を持っていなかったからである。従ってナチスは、ドイツの社会生活を実際には画一化する事は出来なかった。ヒトラーは全能であり、ドイツ民衆は精神も行動様式も画一化されロボット同然となり、各種の利益集団や職業的組織も画一化されそれぞれに特有な要求を提出するほどの独自性を失ってしまった、という通説は誤りである。ナチスは十分な力を持っていなかったので、民衆の社会生活上の利害や風習や感情に対して妥協せざるを得なかったのである。しかし、民衆の側も基本的にはナチス体制の内部で自らの欲求を実現しようとしていた[59]
結果

これらの政策により、ナチ党は1945年のドイツ降伏までの12年間、ドイツを統治し続けた。しかし国民全体の完全な同一化は達成されなかった。企業や軍部に対するナチ党の侵入も完全に徹底されたわけではなく、圧力団体としての抵抗力を残した[60]。また告白教会黒いオーケストラなどの反ナチ運動に加入する、反ナチ的な思想を持つ人々は残存しており、ナチス教育を受けた世代でも白いバラなどの勢力が生まれた。

また、これを指導するべきナチ党の指導者間でも権力闘争が頻発した。これは同一化されるべき民族共同体の定義が曖昧であったことも一因であった。ゲッベルスが「ナチズムは個別の事柄や問題を検討してきたのであって、その意味では一つの教義を持ったことがない」と発言したように、民族共同体の定義は発言する者によって微妙な相違があった[61]。ヘスは党活動による統治を、ヒムラーは神秘主義的な人種国家大ゲルマン帝国を、フリックは官僚国家、リヒャルト・ヴァルター・ダレ血と土のイデオロギーに基づく「血と土の新貴族」による世界を、ロベルト・ライは労働戦線を主体とした「労働の貴族による業績共同体」、バルドゥール・フォン・シーラッハはヒトラーユーゲントの主導する世界を構想していた。彼らはそれぞれの理想を実現するために、自らの支配下でその路線を推し進め、一方では権力抗争を繰り広げた。これをハンス・モムゼン(en)などの研究者は激しい権力闘争に見舞われた「機構的アナーキー」状態であったと見ている。これらの権力闘争の中で闘争を超越した、シンボリックな「ヒトラーの意思」は絶対的なものとなった[62]
年表
1933年


1月30日 ヒトラー内閣成立。

2月4日 ドイツ民族保護のための大統領令。政府による集会・デモ・政党機関紙の制限が可能となる。

2月6日 大統領令により、プロイセン州内閣の権限が国家弁務官に譲渡されることとなる。この措置は2月中旬までにほとんどの州で行われ、地方行政が国家の監督を強く受けることとなる。強制的同一化の開始。

ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチス党が掌握。


2月21日 突撃隊・親衛隊・鉄兜団団員5万名がプロイセン州の「補助警察」となる

2月24日 プロイセン州警察が共産党本部カール・リープクネヒト館を襲撃。「武力革命の計画書」を発見したと公表。

2月27日 国会議事堂放火事件発生。

2月28日 「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令(en)」と「ドイツ民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令(en)」の二つの緊急大統領令が布告される。後の政府が行う非常手段の大半の根拠となった。

3月5日 国会議員選挙結果発表。ナチ党は43.9%の票を獲得、288議席を得た。

3月10日 バイエルン州の国家弁務官にフランツ・フォン・エップが就任し、州政府を解体。


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