強制的同一化
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ハンナ・アーレントが、全体主義支配の体制にとって最も重要なものは「共同社会の完全なる瓦解による個人化とアトム化」が必要であると指摘したように、強制的同一化は国民達を結びつけていた小さなグループやクラブにまで及んだ[37]。既存の団体はフライコール(ドイツ義勇軍)や医師協会、街のコーラスグループにいたるまで解体され、ナチ党の支配下の組織へと再編成された。

また、各地労働組合も1933年5月1日の「国民労働の日」と題した「政府と労働者の統合の祝日」の翌日に解散させられた。かわりに労働者はドイツ労働戦線に加入することが義務づけられた。労働戦線においては成人のための「国家社会主義教育」が行われた。すなわち、これまでドイツの統一を阻んできた「マルクス主義自由主義フリーメイソン、ユダヤ・キリスト教」の教説を抹殺し、階級や身分意識を取り払い、「ドイツ民族たる自覚」を頭の中にたたき込むことである[38]。また、冬季救済事業(de)とよばれる義務的な寄付活動が、民族一人一人が民族共同体への貢献意識をもつための教育活動として行われた[39]。そして労働戦線の下部組織、歓喜力行団は従来であれば同席することもなかった人々を同じ席に座らせ、ダンスや音楽会、憩いの夕べといった娯楽を提供した。これにより人々は階級を超えたつながりをはじめて持つことが出来た。これらを実際に体験したクラウス・ヒルデブラント(en)は「階級間の区別を打ち壊した」と評している[40]
青少年教育ヒトラーユーゲント詳細は「ナチス・ドイツの青少年教育」を参照

青少年教育に関しては、1938年12月8日、ライヒェンベルク[要曖昧さ回避]における管区指導者(クライスライター)との会合において、ヒトラーが述べた次のような言葉が端的に現している。「少年少女は10歳でわれわれの組織に入り、そこではじめて新鮮な空気を吸う。その4年後、ユングフォルク(de:Deutsches Jungvolk)からヒトラーユーゲントにやってくると再びわれわれは彼らを4年間そこに入れて教育する。(中略)われわれは彼らを直ちにSA(突撃隊)、SS(親衛隊)、ナチス自動車隊等に入れるのだ。」そこで完全なナチス主義者にならない場合には国家労働奉仕団国防軍に送り込んで「治療」する。「そうすれば彼らは一生涯もはや自由ではなくなるのだ。」[41]

これまでの民間青少年団体は解散させられ、ナチ党の団体のみに統一された。学校内部にもナチ党の指導が及ぶようになり、1936年12月1日にはヒトラーユーゲント法が成立し、ヒトラーユーゲントは学校・家庭と並ぶ教育機関であると位置づけられた。

青少年の民族教育は党によって、「われわれが欲するままの人間へと」[42]、「自分自身のために過ごすことのできる時期があるなどとは、誰にも言わせはしない。」[41] ように絶え間なく行われた。また、家庭でも民族教育が行われることが強制され、それを怠った場合には処罰や子供からの損害賠償請求の対象となった[43]
血統ゲッベルスと子供達。1937年

ナチズムにとって民族共同体を汚すと考えられたものが、優良な民族に対する「種的変質者」や「劣等民族」との混血であった。このうち前者には再犯の蓋然性が見られると判定された、精神障害者を含む「常習犯罪者」・同性愛者をふくむ「道徳犯罪者」・「少年犯罪者」などの「質的犯罪者」、大酒飲みや売春婦のような不道徳な生活を送る者、精神・身体の障害者、遺伝病保持者などが含まれる。これらの「種的変質者」は「劣等な子孫を残すこと」も民族共同体への害になるとして、裁判や断種法に基づく不妊手術や死などの処分が取られた[44]。障害者に対するものとしてはT4作戦が知られている。

また劣等民族のうちドイツ民族と「正反対の人種」であるユダヤ人への迫害は政権獲得以後急速に進んだ。1933年3月26日には突撃隊によるユダヤ人商店のボイコットが全国的に行われた。この行動は今まで反ユダヤ主義の見られなかった地域でも、ユダヤ人に対する迫害が始まるきっかけとなった[45]。4月7日にユダヤ人を含む非アーリア人は公職から追放された。さらに対象は弁護士、医師、農民にまで及んだ。さらにドイツ民族との結婚は1935年のニュルンベルク法で禁止された。これらの政策は後にホロコーストにつながることになる。

一方で優良な民族の血を持つ者には結婚と多産が奨励され、避妊や堕胎は禁じられた。ゲッベルスとの子が6人、前夫との子も含めると7人もの子を産んだゲッベルス夫人はあるべき母親の姿として喧伝された。
迫害宣伝省制作によるユダヤ人排斥の映画『永遠のユダヤ人』の上映館

ヒトラーは全権委任法成立前の演説で、「国民政府は国家と国民の生存を否定しようとするすべての分岐を(民族共同体)から追放することを自らの義務」とみなし、「民族に対する裏切りは仮借なき野蛮さでもって焼き払われなければならない」とした[43]。こうした追放の対象は、反ナチス思想の持ち主や、種的変質者や劣等民族に加え、「外国への通謀者」(Landesverrater)や、困難な時期に窃盗などを行って利得を図る「民族の害虫」なども含まれる。

1934年4月24日には特別裁判所として人民法廷(民族裁判所、Volksgerichtshof)が設置された。この裁判所は大逆罪、背反罪、ヒトラーに対する攻撃などを管轄した。ゲッベルスは「判決が合法的であるか否かは問題ではない。むしろ判決の合目的性のみが重要なのである。(中略)裁判の基礎とすべきは、法律ではなく、犯罪者は抹殺されねばならないとの断固たる決意である。」と演説し、これを受けて所長となったローラント・フライスラーは被告人の半数近くを死刑へと追いやった[46]

また、共同体にそぐわないと考えられた者には時として法によらない処分が行われた。共産党員などの強制収容所への保安拘禁、第二革命を唱える突撃隊幹部を殺害した「長いナイフの夜事件」、「水晶の夜」事件のユダヤ人商店の破壊などはその例である。
国民の反応

この期間、ドイツ国民の間からは大きな反発がおこらなかった。1933年の国際連盟脱退、1936年のラインラント進駐などのドイツ国民が悲願とするヴェルサイユ体制からの離脱など、政策が支持を集めたこと、失業者減少にある程度成功したことがある。11月12日に国会選挙とともに行われた民族投票では、95.1%が賛成票であり、ダッハウ強制収容所に収監されていた政治犯のほとんどもヒトラーの政策に賛成票を投じた[47]。ただし投票の監視はこの頃にも行われており、投票場への組織的な駆り出し、集会参加の強制、投票内容の監視が行われた[48]。棄権者が処罰される事件も起こっている。また断種措置の根拠となる優生思想やユダヤ人迫害などはすでにヴァイマル共和政時代からその萌芽が存在していたことも一因であった。

しかし強制的同一化の過程で行われた国民動員とプロパガンダが、国民から考える時間と材料を奪った。ミルトン・メイヤー(en)がインタビューした言語学者は、全く新しい活動「集会、会議、対談、儀式、とりわけ提出しなければならない書類」など、以前には重要でなかったことに参加しなければならないか、もしくは参加することを「期待」されていた。それにエネルギーを使い果たし、考える時間はなくなったと回想している。「私たちに考えなければならない課題を突きつけながら、ナチズムは、しかし、絶え間ない変化と『危機』でもって私たちの目を回らせ、心を奪い取っていったのです。まったくのところ、内外の『国家の敵』という陰謀に、私たちの目は見えなくなっていました。私たちには、少しずつ私たちの周りで大きくなっていった恐るべき事態について考える時間はありませんでした。」[49]

当時、特派員としてドイツに滞在していたウィリアム・L・シャイラーは、多くの人が新聞やラジオの情報とほぼ同じことを語っており、「全体国家の中で、検閲された新聞やラジオによって、人がいかにたやすく獲得されるかを経験することが出来た」と回想している[50]。強制的同一化を経た人々は、それが政府の強制でなく自分から自発的に生み出されたものだと感じており、メイヤーがナチ党員の証言をまとめた本のタイトル『彼らは自由だと思っていた』(They Thought They Were Free)もそれを現している。

1938年9月26日、ズデーテン危機に際してベネシュ大統領に戦争か平和かを突きつけたヒトラーの演説は、強制的同一化が完成した彼の理想形を表すものであった。今や、私が民族の第一の兵士としてその先頭に立ち、私のあとには1918年当時とは全く別の民族が行進しつつある。今この瞬間、ドイツ民族全体が私と一体となるであろう。彼らは私の意思を自己の意思として感ずるであろう。 ? 1938年9月26日、シュポルトパラストにおけるヒトラー演説、南利明訳[51]

第三帝国下のナチ党地方組織による活動報告ではナチスの民衆統制政策が不徹底な形でしか及んでいなかった事が判明している。

それらの実態の記録として以下のようなものとなる。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}収穫記念章(Erntefest-Abzeichen)の入荷に伴って、宿泊者に宿泊料を支払わせるのと同じ様な形式でこの記念章を売り捌いた時の住民の反応振りを報告したい。


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