強制的同一化
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これはヒトラーが指導者の権限を法律ではなく、自らの指導者としての人格によって生み出されたものと定義していたものによる[16]。この原則は後の法相ハンス・フランクも「一切の法は指導者から由来する」と述べたように公式見解となり、「指導者の意思がドイツの意思」となった[17]

ヒトラーが「服従することを何か自明と感じるのが優秀な民族」であると定義したように、指導者に対しては絶対的な忠誠が求められた。ゲーリングが述べたキャッチフレーズ、「指導者が命令する、われわれは従う!」はそれを端的に現している[18]

1938年以降、閣議はほとんど行われなくなり、書面によるやりとりが主なものになった。法案制定はヒトラー直属のライヒ官房や各省、そしてナチ党が主体となった。大臣の署名も儀礼的なものとなり、実権を持つ大臣はわずかな者となった。第二次世界大戦勃発後は政府の法令も減少し、総統命令が主たる法律となった。

1942年4月26日、ナチス・ドイツにおける最後の国会が開催された。この国会で指導者であるヒトラーは「いついかなる状況」においてでも「すべてのドイツ人」に対し、「その者の法的権利にかかわりなく」、「所定の手続きを得ることなく」罰する権利を手に入れた。これによりヒトラーは法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる存在となった[19]
地方自治1925年時点の州1937年時点の州

ヴァイマル共和政下のは、ドイツ帝国の連邦諸邦から生まれたものであり、強い自治権限を持っていた。特に全土の3分の2を占めるプロイセン州パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領と思想的立場を異にするドイツ社会民主党ドイツ共産党の勢力が強く、中央政府の意向に反抗することもあった。このため1932年7月20日にフランツ・フォン・パーペン首相はプロイセン州政府を強制解散し、自ら国家弁務官(総督)となることでプロイセン州を支配しようとした。この「プロイセン・クーデター(de)」は後に州政府が支配される際の先例となった。

ヒトラー内閣が成立した直後の1933年2月6日、「プロイセンにおける秩序ある政府の樹立のためのライヒ大統領令」が発令され、ふたたびパーペンが国家弁務官となり、州政府を掌握した。新しい内相にはヘルマン・ゲーリングが就任し、プロイセン州の警察権力を握った。この権力は選挙を有利に進め、権力掌握の大きな原動力となった。また2月中旬には同様の措置が各州にもとられ、最後に残ったバイエルン州も3月9日にナチ党の手に落ちた。

全権委任法成立後の 3月31日、「ラントとライヒの均質化(Gleichschaltung)に関する暫定法律」(de)が公布された。これにより、各州議会の議席が国会の議席配分に従って決められるようになった。4月7日には「ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律」が公布された。この法律で州議会の解散権や州法の立法権が国に移り、さらに国家弁務官に代わってより権限の強いライヒ代官(または国家代理官、州総督Reichsstatthalter)の設置が定められた[20]。以降、州の権限は少しずつ国家や党に委譲されていくことになる。

1934年1月30日の「ドイツ国再建に関する法(ライヒ新構成法)」により、州は単なる国の下部行政機関であると定められ、州議会は廃止されたうえに、司法分野を除く州の公務員はすべて国家公務員となった。2月5日にはそれまで州ごとに分けられていた国籍が国のもとに一体化された[21]。2月14日には州選出のライヒスラートが廃止された。ライヒスラートの制度は憲法によって国が廃止することは出来ないと定められていたが、「ドイツ国再建に関する法」第四条にある「ライヒ政府は新憲法を制定しうる」という規定がこの措置を可能にした[22]。1935年1月30日、ライヒ代官法が制定され、ライヒ代官の役割は州政府に対する命令者、つまり州行政における排他的な責任者となった[23]。この後、党と政府の一体化が進むにつれ地方の実権は大管区ごとの大管区指導者が握ることになり、州政府の役割は形骸化した。
司法

ナチ党が政権を掌握した後も、国会議事堂放火事件の判決に見られるように、司法界は一定の独立的権限を持っていた。また地方の裁判所は州の管轄下に置かれていた。1934年の「ドイツ国再建に関する法」ではこの点も改革が行われた。恩赦権など州ごとの司法権は国に帰属すると定められ、過渡的な措置として州に委託されるものであるとされた。2月16日には『司法権のライヒへの委譲のための第一法律』が制定され、継続中の刑事事件の破棄やすべての規則の制定権が国に移った。

4月22日、「各ラント(州)司法の強制的同質化及び法秩序の新たな形成」を担当する国家弁務官にハンス・フランクが就任した。10月23日には国の司法省とプロイセン州司法省が統合され、12月5日には『司法権のライヒへの委譲のための第二法律』によってすべての司法省が統合した。翌1935年1月24日には『司法権のライヒへの委譲のための第三法律』が制定され、国はすべての司法権限を吸収し、州司法官はすべて国家公務員となった[24]
法制

ライヒ公民[注釈 1] や官吏や軍人に対しては民族と祖国、そして指導者であるアドルフ・ヒトラーに対する忠誠が求められた(忠誠宣誓)。このため故意による犯罪はこの民族共同体を破壊する「民族への裏切り(Volksverrat)」として扱われた。このような文言は「ドイツ民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」や「ドイツ民族経済への裏切りに対する法律」などに現れている。これらの民族共同体に対する忠誠義務違反の犯罪にはその他の行為に対するよりも重い刑罰が科せられた[25]。これらの思想は犯罪の結果をもって裁かれる「結果刑法」ではなく、犯罪ではなく犯罪者の異図によって裁く意思刑法への転換をもたらした[26]。また裁判も犯罪ではなく犯罪者の人格を裁くことが目的とされた[27]。このため法の不遡及も不適当な原則として放棄された。

また、たとえ明文の規定が無くても、法的な責任を有効に課すことが可能であるとされた。これは、まだニュルンベルク法によって禁止されていない、ドイツ人とユダヤ人の婚姻届を拒否した官吏の措置が裁判所によって正当なものであるとされた判決にも現れている。この判決では禁じられていないことは許されているという罪刑法定主義を「ユダヤ的自由主義的道徳思想」として排斥し、「精神的態度、外的な生活行動を唯一もっぱら民族の福利の方向へ整序し、その利害に従属させること」が法であるとされた[28]

これらの法律を体系的なものとする刑法典の編纂は1933年4月22日から始まったが、法相フランツ・ギュルトナーと党の司法全国指導者ハンス・フランク、副総統ルドルフ・ヘスの確執が草案の策定を難航させた。草案は1939年4月に完成したものの、ヒトラーは承認せず、成立しなかった[29]
治安機関

ヴァイマル共和政時代の警察は各州のものであり、強力な全国的組織は存在しなかった。しかし全土の3分の2を占めるプロイセン州の警察管轄権を手に入れたゲーリングにより、警察権力の再編成が開始された。ゲーリングは警察幹部を突撃隊親衛隊の幹部と入れ替え、警察を掌握した。4月26日、プロイセン州警察の政治警察部門は新たに州警察秘密局(Geheime Staatspolizeiamt)に変更され、州警察でありながら州内相直轄の組織となった。この組織は国家の存立及び安全に対する闘争を目的として作られたものであり、郵便略号から「ゲシュタポ」の名で呼ばれる。ナチ党による地方の掌握が進むと同様の組織が各州にも作られた。

1934年になると、警察組織の一元化が進んだ。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは1月までにプロイセン州以外の政治警察長官に、4月10日にはプロイセン州秘密警察局の長官代理となり、事実上、全土の秘密警察のトップとなった。1936年2月10日にはゲシュタポは全州の秘密警察の監督権を手に入れた。6月17日には内務省内にすべての警察を支配する警察長官が設置され、ヒムラーが就任された。これにより警察組織の統一が実現した。ヒムラーは警察を秩序警察保安警察に再編し、警察権力の強化に当たった。
国民啓蒙・宣伝省宣伝省による焚書のデモンストレーション

宣伝省は「政府の政策及び祖国ドイツの国民的再建に関する民族への啓蒙と宣伝」を目的とする省庁として、1933年3月13日に設立された[4]。この宣伝省が最初に行った大イベントが、3月21日の「民族高揚の日」と名付けられた国会開会記念式典である。この式典はプロイセン以来のドイツの伝統を反映させた壮麗なものであり、多くの保守的な国民の心をつかんだ。この日は後にポツダムの日(de)と呼ばれるようになる。ナチス・ドイツ時代を通じて宣伝省は、「総統誕生日」や「ナチ党党大会」などの大小のイベントを次々と行い、国家社会主義運動が生み出す興奮と感動を体感させようとした[30]

ヒトラーは『我が闘争』の中で「国家はいわゆる『新聞の自由』という法螺話に惑わされることなく、断固として民族教育のこの手段を確保し、国家と国民に奉仕させねばならない」と述べているが[4]、この「民族教育の手段」と見なされたものには出版、ラジオ、映画、演劇、芸術なども含まれた。宣伝省とその傘下の帝国文化院(de)はこれらに介入し、あるべき「民族教育」のために検閲や指導を行った。その始まりとして知られるのが、宣伝省主催による1933年5月の「反ドイツ的な書物」の焚書デモンストレーションである。


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