強制的同一化
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

[11] という言葉にも表れている。

ヒトラー内閣組閣後間もなくその動きは現れた。1933年2月4日には「ドイツ民族保護のための大統領令」が出され、集会・デモ行進・機関紙は政府の命令いかんで禁止されることになった。この法律自体を見ればナチ党も対象であったが、無任所相ヘルマン・ゲーリングが「ライヒ政府によって開始された再建の作業を、国家に敵対する勢力から守るためである」と語ったように、実際にはナチ党とその与党以外が対象となるものであった[12]。その後、国会議事堂放火事件の翌日2月28日に発令された「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」により、ナチ党の政府は法的な手続きによらず、逮捕・拘禁できる権限を手に入れた。彼らの行き先は裁判ではなく、ダッハウ強制収容所を始めとする強制収容所であった。この緊急令はナチス・ドイツの崩壊まで生き続け、数多くの人々が強制収容所への道をたどることになる。

ナチ党は3月の国会議員選挙による勝利を「ナチ党によるライヒ指導が国民によって信任された」と定義し、党が「国民と国家の指導者(nationale Fuhrer)」となったとした[13]。3月6日にドイツ共産党は禁止され、全権委任法成立により政府が立法権を掌握した後にはドイツ社会民主党も解散させられた。他の政党も次々と『自主解散』し、7月14日の「政党新設禁止法」(de)によってナチ党以外の政党は消滅した。

10月14日には国会が解散され、11月12日には内相ヴィルヘルム・フリックとナチ党の協議によって作成された候補者リストを「承認」するだけの選挙が行われた。これによって国会はナチ党議員と党によって承認された者だけになった。12月11日には新たな国会が開催された。この冒頭でヒトラーは新国会の目的を「ナチスにより構成された国家指導部によって開始された偉大な建設作業に支持を与える」ことと、「党を通して民族との間に生き生きとした結合を与える」こととした。以降国会は単なる政府の協賛機関となり、ヒトラーの発議によって時折開催され、満場一致で賛成する儀礼的なものでしかなくなった。
ナチ党

ナチ党は政党新設禁止法で「国内唯一の政党」と規定された。12月1日、「党と国家の統一を保障するための法律」が成立した。この法律でナチ党は「ドイツ国家思想のトレーガー(運搬者)となり、国家と不可分に結ばれる」ことが定められた。選挙後、ヒトラーは国会で「民族は政府のみならず、政府を支配する党にも「ja」(賛意)を与えた。」として、一党支配体制を宣言した[14]

一方で党内には不満がくすぶっていた。特に党内最大組織である突撃隊の幹部であるエルンスト・レームらは突撃隊の国軍化を求めており、体制変革も不十分と感じていた。このためゲーリングやヒムラーらは突撃隊の粛清を計画し、突撃隊反乱の噂を振りまいた。ヒトラーも粛清を決意し、1934年6月30日に突撃隊幹部などの反体制派が殺害された。これが「長いナイフの夜」と呼ばれる事件である。
指導者「総統」および「指導者原理」も参照

民族がナチ党にライヒ指導を託した結果、その指導者(Fuhrer)であるヒトラーが民族の指導者であることは自明のこととされた。やがて公的な場でヒトラーを呼称する際に指導者(Fuhrer)と呼ぶ例が増加していった。全権委任法と後述する司法の強制的同一化により、ヒトラーは実質的な三権の支配者となったが、この動きに老いたヒンデンブルク大統領は対抗しようとせず、ヒトラーの権力掌握は順調に進んでいった。

1934年、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の病状が悪化すると、8月1日に「国家元首に関する法律」(de)が制定された。8月2日にヒンデンブルク大統領が死去するとこの法律は発効し、大統領職は首相職と統合され、大統領の権限は「指導者兼首相(Fuhrer und Reichskanzler)」であるアドルフ・ヒトラー個人に委譲された[15]。この時点で名実ともにヒトラーはドイツ国の最高権力を手に入れた。これ以降、日本ではヒトラーの地位を「総統」と呼ぶことが始まった。

8月3日には「国家元首に関する法律」の施行令が公布されたが、この形式で出される命令は『Fuhrerlass』もしくは『Fuhrerverordnung』、日本語で総統命令または指導者命令と呼ばれる。やがて総統命令は、これまでの大統領令のように法的根拠を示さず、ただ命令のみが書かれるようになる。これはヒトラーが指導者の権限を法律ではなく、自らの指導者としての人格によって生み出されたものと定義していたものによる[16]。この原則は後の法相ハンス・フランクも「一切の法は指導者から由来する」と述べたように公式見解となり、「指導者の意思がドイツの意思」となった[17]

ヒトラーが「服従することを何か自明と感じるのが優秀な民族」であると定義したように、指導者に対しては絶対的な忠誠が求められた。ゲーリングが述べたキャッチフレーズ、「指導者が命令する、われわれは従う!」はそれを端的に現している[18]

1938年以降、閣議はほとんど行われなくなり、書面によるやりとりが主なものになった。法案制定はヒトラー直属のライヒ官房や各省、そしてナチ党が主体となった。大臣の署名も儀礼的なものとなり、実権を持つ大臣はわずかな者となった。第二次世界大戦勃発後は政府の法令も減少し、総統命令が主たる法律となった。

1942年4月26日、ナチス・ドイツにおける最後の国会が開催された。この国会で指導者であるヒトラーは「いついかなる状況」においてでも「すべてのドイツ人」に対し、「その者の法的権利にかかわりなく」、「所定の手続きを得ることなく」罰する権利を手に入れた。これによりヒトラーは法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる存在となった[19]
地方自治1925年時点の州1937年時点の州

ヴァイマル共和政下のは、ドイツ帝国の連邦諸邦から生まれたものであり、強い自治権限を持っていた。特に全土の3分の2を占めるプロイセン州パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領と思想的立場を異にするドイツ社会民主党ドイツ共産党の勢力が強く、中央政府の意向に反抗することもあった。このため1932年7月20日にフランツ・フォン・パーペン首相はプロイセン州政府を強制解散し、自ら国家弁務官(総督)となることでプロイセン州を支配しようとした。この「プロイセン・クーデター(de)」は後に州政府が支配される際の先例となった。

ヒトラー内閣が成立した直後の1933年2月6日、「プロイセンにおける秩序ある政府の樹立のためのライヒ大統領令」が発令され、ふたたびパーペンが国家弁務官となり、州政府を掌握した。新しい内相にはヘルマン・ゲーリングが就任し、プロイセン州の警察権力を握った。この権力は選挙を有利に進め、権力掌握の大きな原動力となった。また2月中旬には同様の措置が各州にもとられ、最後に残ったバイエルン州も3月9日にナチ党の手に落ちた。

全権委任法成立後の 3月31日、「ラントとライヒの均質化(Gleichschaltung)に関する暫定法律」(de)が公布された。これにより、各州議会の議席が国会の議席配分に従って決められるようになった。4月7日には「ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律」が公布された。この法律で州議会の解散権や州法の立法権が国に移り、さらに国家弁務官に代わってより権限の強いライヒ代官(または国家代理官、州総督Reichsstatthalter)の設置が定められた[20]。以降、州の権限は少しずつ国家や党に委譲されていくことになる。

1934年1月30日の「ドイツ国再建に関する法(ライヒ新構成法)」により、州は単なる国の下部行政機関であると定められ、州議会は廃止されたうえに、司法分野を除く州の公務員はすべて国家公務員となった。2月5日にはそれまで州ごとに分けられていた国籍が国のもとに一体化された[21]。2月14日には州選出のライヒスラートが廃止された。ライヒスラートの制度は憲法によって国が廃止することは出来ないと定められていたが、「ドイツ国再建に関する法」第四条にある「ライヒ政府は新憲法を制定しうる」という規定がこの措置を可能にした[22]。1935年1月30日、ライヒ代官法が制定され、ライヒ代官の役割は州政府に対する命令者、つまり州行政における排他的な責任者となった[23]。この後、党と政府の一体化が進むにつれ地方の実権は大管区ごとの大管区指導者が握ることになり、州政府の役割は形骸化した。
司法

ナチ党が政権を掌握した後も、国会議事堂放火事件の判決に見られるように、司法界は一定の独立的権限を持っていた。また地方の裁判所は州の管轄下に置かれていた。1934年の「ドイツ国再建に関する法」ではこの点も改革が行われた。恩赦権など州ごとの司法権は国に帰属すると定められ、過渡的な措置として州に委託されるものであるとされた。2月16日には『司法権のライヒへの委譲のための第一法律』が制定され、継続中の刑事事件の破棄やすべての規則の制定権が国に移った。

4月22日、「各ラント(州)司法の強制的同質化及び法秩序の新たな形成」を担当する国家弁務官にハンス・フランクが就任した。10月23日には国の司法省とプロイセン州司法省が統合され、12月5日には『司法権のライヒへの委譲のための第二法律』によってすべての司法省が統合した。翌1935年1月24日には『司法権のライヒへの委譲のための第三法律』が制定され、国はすべての司法権限を吸収し、州司法官はすべて国家公務員となった[24]
法制


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:145 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef