強制的同一化
[Wikipedia|▼Menu]
1936年の党大会でアドルフ・ヒトラーが述べた言葉はそれを現している。「われわれがとるあらゆる処置は、われわれの民族の外面的な相貌ではなく、内面的な本質を変革せんとするものなのだ。」[3]

ナチ党が権力を握った後、政府機関や党はこの目的のために活動した。特に、国民の意識面での同一化に当たった機関が1933年3月13日に設立された 国民啓蒙・宣伝省である。大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは就任直後の会見で「政府と民族全体のグライヒシャルトゥング(同一化)の実現」が省の目的であると述べた[4]。宣伝省はドイツ史上かつて無いプロパガンダを行い、同一化を推進した。
思想的背景

ナチ党の思想、国民社会主義にとって民族とは、「種と運命の同質性に立脚する共同体」であった。特にドイツ民族は最も高貴とされる北方人種の影響下に生み出された「文化的歴史的共同体」として定義された[5]。しかし、そのドイツ民族が1918年第一次世界大戦敗北に至ったのは、民族が「内面的堕落」を迎えたためである、とした。その堕落とは「国際主義の跋扈」、「闘争本能の衰退」、「人種的価値の軽視」であり、そのためにドイツ民族は支配者たる権利を失ってしまったのだとされた[6]

その堕落からドイツ民族を救うのが、国民社会主義運動であり、「諸党派、団体、組合、世界観、さらには身分的自惚れや階級妄想からなるこの雑然とした寄せ木細工」のような現在を、「ドイツ民族にわれわれの新しい精神を吹き込む」ことによって、「再び鉄のような強固な民族体を鋳造」することができるとした[7]。その強固な民族体において、国民社会主義は「この世界の中でドイツ人であり、ドイツ人であろうと欲するすべての者にとっての拘束力ある法則」であった。この運動という世界観は「ドイツ人の最後の一人に至るまで、ライヒ(ドイツ国家)の象徴を自己の信条として心に抱くようになるまで」継続されるべきものであり、その前には個人の選択などは許されないものであった[8]

この思想は、ナチ党が政権を握る前からすでに『我が闘争』などの著作で主張されていた。1930年9月25日、ライプツィヒの国軍訴訟でヒトラーは次のように述べている[9]。「国民社会主義運動は、この国の中で、憲法に則した手段でもって自らの目的を実現しようとするものである。(中略)われわれは、憲法に即した手段を使って、立法機関の中で決定的な多数派となるように努力する。しかし、それはこのことを実現したその瞬間に、国家をわれわれの理想と合致する鋳型に入れて鋳直すためにである。」また、将来の重要政策として、「民族の内面的価値を計画的に育成増進することにより、ドイツ民族という身体を鍛え強化し一つの有機体へと統一すること」を掲げている[3]。これらは後のナチ党による権力掌握過程と、強制的同一化を予告するものであった。
分野別の過程
立法国会で演説するヒトラー。1939年10月9日

権力獲得後、ナチ党は「ドイツにはいかなる階級も存在せず、存在を許されない」というテーゼ[10] から、階級の代表とされる他の政党を排除し、ナチ党のみを代表とする国家を作ろうとした。これは内相となったヴィルヘルム・フリックの「ナチス(国家社会主義)運動を支配する全体性の原則は」「政治生活の領域においてただ一つの正当な根本的世界観があるということを前提とする。このことからして、ナチス国家の中では多様な政党が存在する余地はありえない。」[11] という言葉にも表れている。

ヒトラー内閣組閣後間もなくその動きは現れた。1933年2月4日には「ドイツ民族保護のための大統領令」が出され、集会・デモ行進・機関紙は政府の命令いかんで禁止されることになった。この法律自体を見ればナチ党も対象であったが、無任所相ヘルマン・ゲーリングが「ライヒ政府によって開始された再建の作業を、国家に敵対する勢力から守るためである」と語ったように、実際にはナチ党とその与党以外が対象となるものであった[12]。その後、国会議事堂放火事件の翌日2月28日に発令された「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」により、ナチ党の政府は法的な手続きによらず、逮捕・拘禁できる権限を手に入れた。彼らの行き先は裁判ではなく、ダッハウ強制収容所を始めとする強制収容所であった。この緊急令はナチス・ドイツの崩壊まで生き続け、数多くの人々が強制収容所への道をたどることになる。

ナチ党は3月の国会議員選挙による勝利を「ナチ党によるライヒ指導が国民によって信任された」と定義し、党が「国民と国家の指導者(nationale Fuhrer)」となったとした[13]。3月6日にドイツ共産党は禁止され、全権委任法成立により政府が立法権を掌握した後にはドイツ社会民主党も解散させられた。他の政党も次々と『自主解散』し、7月14日の「政党新設禁止法」(de)によってナチ党以外の政党は消滅した。

10月14日には国会が解散され、11月12日には内相ヴィルヘルム・フリックとナチ党の協議によって作成された候補者リストを「承認」するだけの選挙が行われた。これによって国会はナチ党議員と党によって承認された者だけになった。12月11日には新たな国会が開催された。この冒頭でヒトラーは新国会の目的を「ナチスにより構成された国家指導部によって開始された偉大な建設作業に支持を与える」ことと、「党を通して民族との間に生き生きとした結合を与える」こととした。以降国会は単なる政府の協賛機関となり、ヒトラーの発議によって時折開催され、満場一致で賛成する儀礼的なものでしかなくなった。
ナチ党

ナチ党は政党新設禁止法で「国内唯一の政党」と規定された。12月1日、「党と国家の統一を保障するための法律」が成立した。この法律でナチ党は「ドイツ国家思想のトレーガー(運搬者)となり、国家と不可分に結ばれる」ことが定められた。選挙後、ヒトラーは国会で「民族は政府のみならず、政府を支配する党にも「ja」(賛意)を与えた。」として、一党支配体制を宣言した[14]

一方で党内には不満がくすぶっていた。特に党内最大組織である突撃隊の幹部であるエルンスト・レームらは突撃隊の国軍化を求めており、体制変革も不十分と感じていた。このためゲーリングやヒムラーらは突撃隊の粛清を計画し、突撃隊反乱の噂を振りまいた。ヒトラーも粛清を決意し、1934年6月30日に突撃隊幹部などの反体制派が殺害された。これが「長いナイフの夜」と呼ばれる事件である。
指導者「総統」および「指導者原理」も参照

民族がナチ党にライヒ指導を託した結果、その指導者(Fuhrer)であるヒトラーが民族の指導者であることは自明のこととされた。やがて公的な場でヒトラーを呼称する際に指導者(Fuhrer)と呼ぶ例が増加していった。全権委任法と後述する司法の強制的同一化により、ヒトラーは実質的な三権の支配者となったが、この動きに老いたヒンデンブルク大統領は対抗しようとせず、ヒトラーの権力掌握は順調に進んでいった。

1934年、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の病状が悪化すると、8月1日に「国家元首に関する法律」(de)が制定された。8月2日にヒンデンブルク大統領が死去するとこの法律は発効し、大統領職は首相職と統合され、大統領の権限は「指導者兼首相(Fuhrer und Reichskanzler)」であるアドルフ・ヒトラー個人に委譲された[15]。この時点で名実ともにヒトラーはドイツ国の最高権力を手に入れた。これ以降、日本ではヒトラーの地位を「総統」と呼ぶことが始まった。

8月3日には「国家元首に関する法律」の施行令が公布されたが、この形式で出される命令は『Fuhrerlass』もしくは『Fuhrerverordnung』、日本語で総統命令または指導者命令と呼ばれる。やがて総統命令は、これまでの大統領令のように法的根拠を示さず、ただ命令のみが書かれるようになる。これはヒトラーが指導者の権限を法律ではなく、自らの指導者としての人格によって生み出されたものと定義していたものによる[16]。この原則は後の法相ハンス・フランクも「一切の法は指導者から由来する」と述べたように公式見解となり、「指導者の意思がドイツの意思」となった[17]

ヒトラーが「服従することを何か自明と感じるのが優秀な民族」であると定義したように、指導者に対しては絶対的な忠誠が求められた。ゲーリングが述べたキャッチフレーズ、「指導者が命令する、われわれは従う!」はそれを端的に現している[18]

1938年以降、閣議はほとんど行われなくなり、書面によるやりとりが主なものになった。法案制定はヒトラー直属のライヒ官房や各省、そしてナチ党が主体となった。大臣の署名も儀礼的なものとなり、実権を持つ大臣はわずかな者となった。第二次世界大戦勃発後は政府の法令も減少し、総統命令が主たる法律となった。

1942年4月26日、ナチス・ドイツにおける最後の国会が開催された。この国会で指導者であるヒトラーは「いついかなる状況」においてでも「すべてのドイツ人」に対し、「その者の法的権利にかかわりなく」、「所定の手続きを得ることなく」罰する権利を手に入れた。これによりヒトラーは法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる存在となった[19]
地方自治1925年時点の州1937年時点の州


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:145 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef