強制収容所_(ナチス)
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そこでゲーリングは、ベルリン郊外のオラニエンブルクオラニエンブルク強制収容所、オランダ国境に近いエムスラント(Emsland)のエステルヴェーゲン強制収容所(KZ Esterwegen)、オスナブリュックのパーペンブルク強制収容所(Papenburg)、メルゼブルクのリヒテンブルク強制収容所(KZ Lichtenburg)、フランクフルト・アン・デア・オーダーのゾネンブルク強制収容所(KZ Sonnenburg)、ポツダムのブランデンブルク強制収容所(KZ Brandenburg)の6つのみを州公認の強制収容所と定めた[20][21]。ついで1933年8月には突撃隊をプロイセン州の補助警察から外し、さらに10月には保護拘禁で逮捕した者は原則として州公認の強制収容所にのみ収容することを定めた[22]。それ以外の私設収容所は1933年末頃までにあらかた片づけられ、1934年3月には全て解散した。しかし親衛隊と対立を深めたくないゲーリングは、親衛隊の私設収容所コロンビアハウス強制収容所(KZ Columbiahaus)には手をつけず、この収容所は1936年まで存続した[23]

ゲーリングはニュルンベルク裁判において強制収容所はボーア戦争の際にイギリス南アフリカに建設した強制収容所(concentration camp)をモデルにしたと証言している[24][25]。ヒトラーも1941年に「強制収容所の発明者はドイツ人ではない。イギリス人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べている[25]
バイエルン1933年ダッハウ強制収容所で、クリスマスの「慈悲行動」の一環として、収容者を恩赦している写真。訓示している人物は所長テオドール・アイケと言われる。

一方プロイセン州に次ぐ規模の州であるバイエルン州でも突撃隊員と親衛隊員は保護拘禁した者を私設強制収容所に収容していた[26]。強制収容所の無政府状態を恐れたミュンヘン警察長官ハインリヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者)は、腹心のラインハルト・ハイドリヒ親衛隊上級大佐(当時)に命じて、1933年3月22日にミュンヘン郊外の第一次世界大戦中に火薬工場として使われていた建物と土地を使ってダッハウ強制収容所を設置させた[26]。このダッハウが最初のナチス強制収容所であるとする説もある。ヒムラーとハイドリヒの指揮の下、バイエルン州でも大勢の反ナチ派が保護拘禁されてダッハウ強制収容所へ送られていった。

ダッハウの運営ははじめから親衛隊によって行われた。ヒムラーは1933年6月にダッハウ収容所第2代所長として後に全強制収容所総監となるテオドール・アイケ親衛隊上級大佐(当時)を任じている。アイケは「寛容は弱さのしるし」「国家の敵に憐みを持つ者はSSに値しない。そういう者は我が隊ではなく修道院へ行け」といったことを繰り返し看守に叩き込んだ[27][28]。またアイケは後に全収容所で採用されることになる強制収容所の組織体制や罰則などをダッハウ強制収容所で最初に制定していった[29]。さらにダッハウ強制収容所の警備部隊を組織したが、これがのちに全強制収容所で警備を行う親衛隊髑髏部隊(SS-TV)となる[30]

ダッハウ強制収容所は第二次世界大戦でのドイツの敗戦まで存続し、もっとも古い強制収容所(プロイセンのオラニエンブルク強制収容所などは後に廃された)としてドイツとその影響下にある国のすべての強制収容所のモデル収容所となっていった。
親衛隊管理下の強制収容所(1934年‐1945年)
戦前期(1934年‐1939年)1936年5月8日、ダッハウ強制収容所を視察するハインリヒ・ヒムラー

1934年4月20日にゲシュタポの指揮権はヘルマン・ゲーリングから親衛隊ハインリヒ・ヒムラーに譲られた。これをきっかけにプロイセン州の各強制収容所もヒムラーがゲーリング以上に大きな影響力を及ぼすようになった。内相ヴィルヘルム・フリックは1934年4月12日と4月26日に「保護拘禁規則」を制定し、保護拘禁の適用範囲や期限などを定めることで保護拘禁の乱用に制限をかけようとした[31]。加えてこの規則は保護拘禁の制度は一時的な処置であっていずれは廃されることを強調していた[32]。しかしながら保護拘禁規則はほとんど守られなかった。1935年春の内務省の幹部のメモには「保護拘禁規則は全く無視されている」とある[33]。そして1938年1月には保護拘禁規則はむしろ保護拘禁の範囲を拡大させる親衛隊に都合のいい内容に改変されてしまった[34]

1934年6月30日から7月初めにかけて発生した長いナイフの夜事件において突撃隊幹部はヒムラーやハイドリヒら親衛隊幹部の主導の下に粛清された。これがきっかけで突撃隊は凋落し、逆に親衛隊は突撃隊から独立を果たして急速に権力を拡大した。この事件後、全強制収容所の運営権が正式に親衛隊の所管となることが決まった。ヒムラーは早速ダッハウ強制収容所の所長テオドール・アイケを全強制収容所監督官(Inspekteur der Konzentrationslager)に任じ、全ての強制収容所の運営をゆだねた。アイケはダッハウで組織した強制収容所警備部隊を拡張し、各強制収容所に配置した。この警備部隊は1936年3月29日に「親衛隊髑髏部隊」(SS-Totenkopfverbande)の名称が与えられ、アイケは親衛隊髑髏部隊総監(Generalinspekteur der SS-Totenkopfverbande)の肩書も得た。強制収容所監督官および親衛隊髑髏部隊総監(はじめアイケ、後にアウグスト・ハイスマイヤーリヒャルト・グリュックス)ははじめ親衛隊本部(SS-Hauptamt)に属していたが、親衛隊本部から親衛隊作戦本部(SS-FHA)が独立するとその第一局となった[35][36]ブーヘンヴァルト強制収容所の模型

1936年にはオラニエンブルクに新たにザクセンハウゼン強制収容所が置かれ、かつてのオラニエンブルク強制収容所だった場所には強制収容所総監および髑髏部隊総監の本部が置かれることとなった。続いて1937年にはヴァイマルの郊外にブーヘンヴァルト強制収容所が置かれた。ダッハウとザクセンハウゼンとブーヘンヴァルトの3つはそれぞれ南ドイツ・北ドイツ・中央ドイツに位置したことから、三大収容所としてドイツ国内の強制収容所の中心的な存在となった[37]。他の中小強制収容所の多くは解体され、その囚人は三大収容所へ移されるか、あるいは三大収容所の外部労働隊(Ausenkommando)として組み込まれた[37]。また大収容所は次々と付属の収容所を設置するようになっていた(外部労働隊駐屯地が収容所へ発展した物が多い)。この関係において大収容所は基幹収容所(Stammlager)、付属収容所は外部収容所(Ausenlager)と呼ばれていた[38]。さらにオーストリア併合後の1938年にはリンツ郊外にある良質な花崗岩採石場があるマウトハウゼンマウトハウゼン強制収容所が設置され、オーストリアの中心的収容所となった[39][40]


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