強制収容所_(ナチス)
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「強制収容所(Konzentrationslager)」という言葉や「保護拘禁(Schutzhaft)」という言葉は出てこないが、この大統領緊急令が反ナチ党勢力を保護拘禁して強制収容所へ送り込む法的根拠となった[8][9][10]。ちなみにこの大統領緊急令はヴァイマル憲法48条が非常時には憲法を停止することを認めていたことに準拠していた[7]

ドイツ共産党ドイツ社会民主党は反ナチ党勢力の代表格であり、「ナチ党にとっては」真っ先に弾圧すべき者たちであった。しかし彼らを「犯罪者」として刑務所に投獄するには裁判で有罪判決を下す必要がある。裁判では不確実なうえに時間がかかる。そこで「犯罪者」ではなく「潜在的な危険分子」として保護拘禁して強制収容所に収容することとしたのである[8][11]
初期の強制収容所(1933年‐1934年)

初期のナチス強制収容所は人種だけを理由とした収容は無く、共産党や社民党など左翼の政治家・活動家が被収容者のほとんどであった(結果的にその中にユダヤ人がいるということはあった)。なおユダヤ人が「ユダヤ人である」という理由だけで強制収容所に入れられるようになったのは戦時中のことである[12]。またこの頃の強制収容所はあくまで再教育して社会復帰させることが主眼であったので、収容所の環境は必ずしも劣悪ではなく、左翼思想さえ捨てれば出られる見込みは十分にあった[13]
プロイセン1933年オラニエンブルク強制収容所。看守の突撃隊隊員に尋問される囚人のドイツ社民党の政治家達。

ヒトラー首相は右腕であるナチ党幹部ヘルマン・ゲーリングプロイセン州内相に任命した[14]

当時プロイセン州は州都ベルリンを中心にドイツ社民党やドイツ共産党をはじめとした左翼が多く、特にベルリンは「赤いベルリン」などと揶揄されているほどの左翼天国であった。ゲーリングは、州の秘密警察組織を整備して州秘密警察(略称ゲシュタポ)を創設し、ルドルフ・ディールスをその局長に任じた。さらにドイツ共産党の仕業とされた国会議事堂放火事件の翌日の2月28日に大統領緊急令が出るや、ゲーリングは共産党員4000人の保護拘禁の逮捕を命じた[15]。この命令により3月から4月にかけて2万5000人以上の左翼が逮捕されたという[16]

逮捕にあたったのはプロイセン州正規の警察と補助警察である突撃隊親衛隊であった。正規の警察によって逮捕された者は警察署や刑務所に収容されたので[16]、それほど無法な扱いは受けなかったという[17]。一方、補助警察である突撃隊や親衛隊によって逮捕された者は、彼らが独自に作った「私設強制収容所」に収容された[18]。これらの多くは空きビルや石炭置き場などを利用した簡易な収容所だったが、ここでは頻繁に残虐行為が行われたという[19]。私設収容所はベルリンを中心に40から60あったと言われる[16][18]

保護拘禁による逮捕数が多くなってくると正規の警察が収容先に困るようになった[19]。強制収容所に収容する必要があったが、突撃隊の無法ぶりに眉をひそめていたゲーリングは強制収容所を突撃隊ではなく州の管理下に置きたかった。そこでゲーリングは、ベルリン郊外のオラニエンブルクオラニエンブルク強制収容所、オランダ国境に近いエムスラント(Emsland)のエステルヴェーゲン強制収容所(KZ Esterwegen)、オスナブリュックのパーペンブルク強制収容所(Papenburg)、メルゼブルクのリヒテンブルク強制収容所(KZ Lichtenburg)、フランクフルト・アン・デア・オーダーのゾネンブルク強制収容所(KZ Sonnenburg)、ポツダムのブランデンブルク強制収容所(KZ Brandenburg)の6つのみを州公認の強制収容所と定めた[20][21]。ついで1933年8月には突撃隊をプロイセン州の補助警察から外し、さらに10月には保護拘禁で逮捕した者は原則として州公認の強制収容所にのみ収容することを定めた[22]。それ以外の私設収容所は1933年末頃までにあらかた片づけられ、1934年3月には全て解散した。しかし親衛隊と対立を深めたくないゲーリングは、親衛隊の私設収容所コロンビアハウス強制収容所(KZ Columbiahaus)には手をつけず、この収容所は1936年まで存続した[23]

ゲーリングはニュルンベルク裁判において強制収容所はボーア戦争の際にイギリス南アフリカに建設した強制収容所(concentration camp)をモデルにしたと証言している[24][25]。ヒトラーも1941年に「強制収容所の発明者はドイツ人ではない。イギリス人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べている[25]
バイエルン1933年ダッハウ強制収容所で、クリスマスの「慈悲行動」の一環として、収容者を恩赦している写真。訓示している人物は所長テオドール・アイケと言われる。

一方プロイセン州に次ぐ規模の州であるバイエルン州でも突撃隊員と親衛隊員は保護拘禁した者を私設強制収容所に収容していた[26]。強制収容所の無政府状態を恐れたミュンヘン警察長官ハインリヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者)は、腹心のラインハルト・ハイドリヒ親衛隊上級大佐(当時)に命じて、1933年3月22日にミュンヘン郊外の第一次世界大戦中に火薬工場として使われていた建物と土地を使ってダッハウ強制収容所を設置させた[26]。このダッハウが最初のナチス強制収容所であるとする説もある。ヒムラーとハイドリヒの指揮の下、バイエルン州でも大勢の反ナチ派が保護拘禁されてダッハウ強制収容所へ送られていった。

ダッハウの運営ははじめから親衛隊によって行われた。ヒムラーは1933年6月にダッハウ収容所第2代所長として後に全強制収容所総監となるテオドール・アイケ親衛隊上級大佐(当時)を任じている。アイケは「寛容は弱さのしるし」「国家の敵に憐みを持つ者はSSに値しない。そういう者は我が隊ではなく修道院へ行け」といったことを繰り返し看守に叩き込んだ[27][28]。またアイケは後に全収容所で採用されることになる強制収容所の組織体制や罰則などをダッハウ強制収容所で最初に制定していった[29]。さらにダッハウ強制収容所の警備部隊を組織したが、これがのちに全強制収容所で警備を行う親衛隊髑髏部隊(SS-TV)となる[30]


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