強制収容所
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スターリン時代の1926年には刑法58条、通称「反革命罪」が制定され、これ以降、多くの共産党員、民間人、外国人がこの罪状によりラーゲリへ連行された。ラーゲリには、反革命派と見做された政治犯第二次世界大戦時の戦争捕虜、あるいは敵対的とされた民族(フィンランド人ポーランド人ドイツ人エストニア人ラトビア人リトアニア人ウクライナ人モルダビア人ユダヤ人テュルク系民族など)、敵階級クラーク資本家貴族など)に属する人々を収容し強制労働に従事させた。過酷な労働により多くの囚人が刑期を終えることなく死亡したとされている。

第二次世界大戦後には、独ソ戦で獲得したドイツ及び周辺枢軸国の捕虜がソ連各地の収容所に(ドイツ人追放)、対日参戦で獲得した日本の捕虜がシベリアの収容所に収容された(シベリア抑留)。

ソ連における収容所は1920年代から第二次世界大戦をはさんで1940年代まで拡大し続け、1950年代はじめに最大規模に達し、ソヴィエト経済で中心的役割を演じるようになっていた。収容所は全国で少なくとも500箇所近くに存在し、収容所に収容された人数は数百万人から数千万人説まであり、全労働力人口の一割以上を占めたともいわれる。収容所の組織的運用によりソ連は近代・現代において、事実上の奴隷制を公的に有する唯一の国家になった。スターリンの死後、後継者のベリヤは自由化キャンペーンにより収容所の規模を縮小し、囚人を解放するなどしたため、条件は幾分緩和されたものとなった。

ソ連の影響によって社会主義国として建国した中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国などもラーゲリを手本とした強制収容所を取り入れている。
ドイツブーヘンヴァルト強制収容所(1945年、ドイツ)詳細は「強制収容所 (ナチス)」、「ホロコースト」、および「ドイツ収容所売春宿」を参照

第二次大戦中の強制収容所では、ドイツによる強制収容所(Konzentrationslager、略称: KZ)が有名である。この時の主な被収容者はユダヤ人や障害者、同性愛者、政治犯であり、最終的にはホロコーストジェノサイド)を目的としていたとされる。政治犯対象の強制収容所のみ例外で、ここではガス室ではなく、泥炭地での過酷な強制労働が中心だった。

ドイツ国内、それもオランダ国境に近い東フリースランド地方に設置された。他の収容所はほとんどがドイツ国外にあったため、多くはドイツの敗戦により解放されたがドイツ国内のブーヘンヴァルト強制収容所のみ囚人らの武装蜂起によって解放されている。また、強制収容所内にドイツ収容所売春宿があった。
中華人民共和国詳細は「労働改造所」および「撫順戦犯管理所」を参照

第二次世界大戦後には日本人戦犯が撫順戦犯管理所に収容された。

チベット亡命政権によると、中華人民共和国ではチベット人が刑務所や労働改造所に収監され、重労働が課されており、収容者の7割が死亡しているとされる[5]

2010年代において、新疆ウイグル自治区では、ウイグル人らが200万人以上が身柄を拘束されており、自治区内に再教育キャンプが数十カ所も建設されていると報道されている[6]
北朝鮮詳細は「朝鮮民主主義人民共和国の強制収容所」を参照

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)においては現在も、反体制的とされた国民を収容するための強制収容所が存在する。
ベトナム共和国

ベトナム共和国(南ベトナム)では、ホーチミン市の南約220キロの洋上にあるコンソン島を収容所もしくは刑務所として使用していた。これら施設はフランスの植民地時代に設置されたものを、ベトナムが独立した後も拡張して使用したもので、多数の収容所群を形成していた。非人道的な施設における収容者の扱いは動物に近い劣悪なもので、1970年代にライフ誌が「トラの檻」として紹介して世界中に存在が知られるようになった[7]1975年ベトナム戦争終結時に収容所は解放。その後は観光地として整備され始めている[8]


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