張鼓峰事件
[Wikipedia|▼Menu]
日本政府は7月15日、モスクワ駐在の日本の西代理大使を通じて、ハサン湖西方の沙草峰(ロシア名: сопка Безымянная, ベジミャナヤ) および張鼓峰(ロシア名: сопка Заозёрная, ザオジョルナヤ)はソビエトと朝鮮の間の国境地帯であるとして、これらの地域からソビエト国境警備隊を退去させるようソ連政府に要求した。満洲国も14日に同様の抗議をおこなった。しかしソ連側は、現地はソ連領であるとして譲らず、外交交渉は物別れに終わった。現地では、18日、軍使をもって、煙秋警備司令官に撤兵を要求したが、なんら回答はなかった。

ソ連軍は29日、張鼓峰北方の沙草峰にも越境し、陣地を構築しようとして日本守備隊に撃退された。

30日夜半から31日にかけて、張鼓峰および沙草峰付近に大挙してソ連軍が来襲してきたが、これに対して日本側守備隊は反撃を加え被占領地を奪回して満洲国領土を回復した。しかし、ソ連側はさらに兵力を増強し、執拗に侵攻を企て、朝鮮の古城、甑山などを砲撃した。

7月31日、ソビエト連邦陸海軍人民委員クリメント・ヴォロシーロフは第1沿岸軍に戦闘準備を下令し、併せて太平洋艦隊にも動員令を発した。

日本の第19師団はいくらかの満洲国軍部隊とともに、グリゴリー・シュテルン指揮下のソビエト第39狙撃軍団(最終的には第32、第39、第40狙撃師団、第2独立機械化旅団)と相対した[4]。この時の日本側の指揮官の一人が、歩兵第75連隊長の佐藤幸徳大佐であった。佐藤の部隊は夜襲で丘にいるソビエト部隊を撃退した。ここで実施された夜襲戦法は日本軍が敵陣地を襲う際のモデルケースとなったものである。

また、張鼓峰事件の間に日本側は軽戦車と中戦車を組織して前線を攻撃したが、即座にソビエト軍の戦車と砲兵の反撃を受けたという報告もある[注釈 1]。1933年には日本は臨時装甲列車を設計・製造していた。これが満洲の第二装甲列車隊に配備されており、張鼓峰事件にも参加して、戦場に数千の兵を輸送した。

8月1日からはソビエト軍航空隊も出動し、日本側の第一線に爆撃を行い、さらに編隊を組んで朝鮮の洪儀、慶興、甑山、古城などを爆撃した。これに対して、日本側はソ連軍の猛攻に損害を受けつつも奮戦し、なんとか国境線を確保した。結果的にはソ連軍も大きな損害を被ることとなった。8月2日、ソビエト側の極東戦線司令官ヴァシーリー・ブリュヘルが前線に到着した。彼の指揮の下で増援部隊が紛争地域に送り込まれ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開された。一連の戦闘で日本軍は高地を維持しているも、大きな打撃を受け、停戦交渉を求めた。

8月10日、日本の駐ソ公使重光葵が停戦を申し入れ、マクシム・リトヴィノフの会談によって8月11日になってモスクワで停戦が合意され、交戦状態は8月11日に終了した[5][6]。その結果、第19師団が両高地頂上を死守していた状態での停戦が決まった。
停戦張鼓峰を守備する日本軍将兵

停戦合意における協定は次の通りである。

ソ連沿海州時間UTC+10)11日正午、双方戦闘行為を中止する

日ソ両軍は、ソ連沿海州時間11日午前零時現在の線を維持する

実行方法は現地における双方軍隊代表者間において協議する。

現地では、11日午後8時ごろ、日本軍代表・歩兵第74連隊長勇大佐がソ連極東軍参謀長シュテルン大将と張鼓峰方面のソ連軍陣地内において会見し、停戦が実現した。翌12日の午後9時30分、文書をもって次のような現地協定覚書を交換した。

張鼓峰稜線北部における現状につき、さしあたり両国政府に報告すること。

日ソ両軍指揮官は、軍事行動停止に関し、両国政府の決定により、今後張鼓峰付近においてはいかなる事件も発せざるため、万全の処置を取ることを保証す。

1938年8月12日午後8時より、日ソ両軍は張鼓峰稜線北部において、日ソ両軍主力を稜線より80m以上の線に後退せしむべし。

現地調査の結果、ソ連軍は日本軍が張鼓峰頂上を確保していることを確認し、協定通り双方部隊の後退を完了した。これをもって戦闘状態は終熄した。
結果と影響捕虜となったソビエト兵と日本憲兵

この激しい紛争で日本側は戦死526名、負傷者914名の損害を出した。この事件は、第一次世界大戦の激戦をほとんど経験しなかった日本にとって、日露戦争後では初めての欧米列強との本格的な戦闘であった。日本軍は日露戦争とシベリア出兵の経験から、ロシアの軍隊を過小評価していたが、この紛争で高度に機械化された赤軍の実力を痛感する結果となった。しかし、当時支那事変日中戦争)の真っ只中であった日本陸軍にとっては、中国国民党軍が主敵であったため、あまり積極的に機械化を進めようとしなかった。そのため、後のノモンハン事件太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて、機械化が進んだ欧米列強に苦戦を強いられることとなった。

ブリュヘルは、国境紛争の拡大に反対の立場をとり、当初、自国国境警備隊による国境侵犯の事実を確かめ、責任者の処罰を要求していた。そのため、戦闘が本格化してもソ連側の兵力集中ははかどらず、スターリンの怒りを買って粛清された[2]

なお、この戦闘に加わった歩兵第75連隊連隊長インパール作戦での抗命で知られる佐藤幸徳大佐であった。他にも歩兵第74連隊の連隊長は沖縄戦での第32軍参謀長で知られる長勇大佐であり、山砲兵第25連隊の連隊長は東京裁判での検事側の証人で知られる田中隆吉大佐であった。
損害

従来機密指定されていたソ連軍の文書が公開されたことで、従来のソ連側の損害が過小に報告されていたことが明らかになっている[7]。ソ連側の規模は、将校が1636人、下士官が3442人、兵士が17,872人で合計22,950人だった。日本側の損害は、戦死・行方不明が約500人、戦傷・戦病が約900人だった。ソ連側の損害は、戦死・行方不明が792人、戦傷・戦病が3279人だった。このことをソ連軍は将校の死者数が全体の18%と特筆して多いと指摘されている。
ギャラリー@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

張鼓峰事件記念館全景

張鼓峰事件発生地の石碑

張鼓峰事件記念館の展示物

張鼓峰事件記念館内部の展示物

張鼓峰事件の慰霊碑

張鼓峰事件紹介

工事中の背面の山が張鼓峰

当時からある西村式手動ポンプ

ハサン湖に臨む張鼓峰事件の記念碑

脚注[脚注の使い方]
注釈^ ソ連軍はT-26軽戦車257輌、BT-5快速戦車81輌、SU-5自走砲13輌を投入。中でもT-26は計85輌が戦闘不能となる損害を出し、9輌が全損、37輌が回収され後送、39輌が軽度の損傷や故障により現地で修理されている。

出典^ 大陸縦断 山本実彦 1938年
^ a b 平井友義『ユーラシアブックレット174 スターリンの赤軍粛清』東洋書店、2012年、54-55頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-86459-039-6


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:67 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef