張飛
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その準備をしている最中である同年6月[1]、恨みを抱いていた部下の張達范彊に殺された。劉備はかねてより張飛が死刑を頻繁に行い、鞭打ちした部下を自分の近侍として仕えさせていることを戒めていたといい、この時張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。

長男の張苞は若死していたため、次男の張紹が跡を継いだ。

景耀3年(260年)秋、劉禅によって桓侯とされた[13]
人物

元々身分の高かった劉備が洗練された書面語で話すのに対し張飛は乱暴な口語を使うが、これは出身地が北宋時代以降、騎馬民族のモンゴル族根拠地となった(燕雲十六州)ことがあり、「漢児言語」という一種のピジン語が話されていたことから、その影響ではないかという研究がある[14]。このため、日本語訳では張飛の言葉はべらんめえ調の江戸方言などで訳されることが多い[15]
武勇

劉備が皇帝に即位した直後の詔勅では、張飛の事を古代の召虎に喩えて、その武勇を賞讃している。また、曹操の参謀であった程cらから「張飛の勇猛さは関羽に次ぐ」さらに「1人で1万の兵に匹敵する」と、郭嘉も同様に張飛・関羽は共に1万の兵に匹敵するとし、劉備の為に死を以て働いている[16]と、董昭は関羽、張飛は劉備の羽翼であり恐れるべきであると[17]、また劉曄にも「関羽と張飛の武勇は三軍の筆頭である」と評されており[18]孫権軍の重鎮である周瑜からも「張飛と関羽を従えれば大事業も成せる」と評されるなど[19]、その武勇は天下に広く評価されていた。

ただ、張飛は士大夫と呼ばれる知識人層には敬意をもって応対したものの、身分の低い者、兵卒などには暴虐であった。多すぎる死刑の数と、いつも兵士を鞭打っている上にその当人を側に仕えさせていることを、劉備からは常々注意されていた。しかし張飛は改めることができず、ついに死に直結する事態を招くこととなった。

三国志を著した陳寿は、蜀志「関張馬黄趙伝」の張飛伝の最後に張飛と関羽の人物評を併せて載せ、このように括っている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は顔良を斬ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。しかし、関羽は剛毅が行きすぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、敢え無く最期を遂げることとなった。理数の常(=道理からして当然)である。(「關羽 張飛皆稱萬人之敵 為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顔 並有國士之風 然羽剛而自矜 飛暴而無恩 以短敢敗 理數之常也」『蜀志巻六・関張馬黄趙伝[2]』)。

陳舜臣はこれを、関羽も張飛も、共に低い身分から士大夫に出世したが、関羽の場合は今や同じ身分となった士大夫に対しての傲慢な振る舞いとなり、張飛の場合は士大夫に出世したことを喜んで同じ身分の者には敬意を払ったが、下の者に対して傲慢になるという正反対の行動になったと解釈している。

史館が選んだ中国史上六十四名将に関羽と共に選ばれている(武廟六十四将)。
エピソード

『三国志』蜀志「劉巴伝」が注に引く『零陵先賢伝』によると、庶民(当時の用語では庶人)上がりの張飛が士大夫劉巴の下に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがにその態度に腹を立て、諸葛亮もまた劉巴と張飛の間を取りなそうとしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)たる者がこの世に生を受けたからには、当然、天下の英傑とこそ交友を結ぶべきです。どうして兵隊野郎(張飛の事)と語り合う必要がありましょうか」と言い捨て、ついに張飛とは親交を結ぶことが無かった。士大夫と庶民との間に、厳然たる身分差と、それによる差別があったことが窺える。
異説

明代、八濛山(四川省渠県)の石壁に岩に刻まれた隷書の文章が発見された。「漢将軍飛率精卒萬人大破賊首張?於八濛立馬勒銘」(漢の将軍張飛が精兵万人を率いて八濛において敵将張?を大破する、ここに軍功を刻む) 後世の人々はこれを「張飛立馬銘」と呼び、張飛に優雅な一面があることに驚かされた。現在は摩耗により判読が難しくなっているが、清光緒年間の拓本がありその筆跡を堪能できる[20]

しかしこの銘文に関する最も早い言及はの文人楊慎(蜀の出身)である。これは少なくとも三国時代1200年以後のことである。さらに古より書道に関する『四体書勢序』、『書物』、『文字志』、『書断』、『叙書賦』、『法書要録』、『歴代名画記』、『墨藪』、『宣和書譜』、『書史会要』などの著作は、一度も張飛の名前に触れたことがない[注釈 2]。近年、楊慎によって偽造られた史跡と考えられている[注釈 3]
説話における張飛

明代に成立した『笑府』にも周倉同様に登場するなど、他の三国時代の人物に対し、より庶民に愛される存在として伝承されてきた。張飛が督郵を鞭打つ場面と長坂橋で曹操軍の前に仁王立ちする場面は、京劇などで特に人気が高く、大向こう受けするという。以降『演義』を下敷きにした各種創作では、こうしたコミカルさも取り入れた好漢として活躍している。
三国志平話

三国志平話上巻』(『第至治新刊全相平話三國志 巻之上』)に「姓張名飛、字翼コ 乃燕邦?郡范陽人也 生得豹頭環眼 燕頷虎鬚 身長九尺餘 聲若巨鐘 家豪大富[24]」と描写される。
三国志演義詳細は「三国志演義の成立史#張飛」を参照

小説『三国志演義』では、黄正甫本『三国志伝』・毛本『三国演義』で字は翼徳(よくとく)、嘉靖本『三国志通俗演義』で字は益徳。五虎大将軍の一人と位置付けられている。

身長八尺(約184cm)、豹のようなゴツゴツした頭にグリグリの目玉、エラが張った顎には虎髭、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のよう(「身長八尺 豹頭環眼 燕頷虎鬚 聲若巨雷 勢如奔馬」)[25]と表される容貌に、一丈八尺の鋼矛「蛇矛(だぼう)」を自在に振るって戦場を縦横無尽に駆ける武勇を誇る武将として描かれている。また、家柄は肉屋と設定されている。

張飛は一騎討ちの名手であり、呂布とも三たび渡り合い、関羽と一騎討ちで互角に戦った紀霊を討ち取り、曹操軍屈指の武勇を持つ猛将である許?に一騎討ちで勝利している。


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